安中藩(中山道・上州路)

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安中宿(中山道・上州路)
【安中宿】−安中宿は永禄2年(1559)に安中越前守忠政によって築かれた安中城の城下町として整備されたと思われます。安中氏は桓武平氏の平維茂の後裔と伝わる氏族で(根拠不詳)当初は越後国の国人領主でしたが(新発田城:新潟県新発田市・説が有力とされますが根拠不詳)、享徳年間(1452〜1454年)又は長享元年(1487)に碓氷郡に入り領主として当地を支配しました。その後は山内上杉氏に従いますが、上杉家が没落して越後に逃れると、永禄5年(1562)以降は武田家に従い有力武将の1人として活躍しました。天正10年(1582)に武田家が滅亡すると、織田信長の家臣滝川一益に属しますが、同年、本能寺の変で信長が倒れると一益は自領に引き上げた為、小田原北条氏に従うようになります。天正18年(1590)、小田原の役で北条氏が滅亡すると安中氏も大名家から没落、安中城は徳川家康の関東移封に伴い箕輪城に配された家康の重臣井伊直政の支配下に入り、近代的な城郭に大改修され城下町も同じく整備されています。直政は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで大功を挙げ為、近江国内に加増を受け本城を佐和山城(滋賀県彦根市)に移し、さらに跡を継いだ直継が彦根城に移します。しかし、直継は元和元年(1615)に強制的に彦根藩主の座を追われ(実際は10年以上も彦根藩主だったにも関わらず記録上は藩主としての職歴も削除された)、改めて安中領3万石が分知され安中藩を立藩しています。直継は直勝に改名、安中は藩庁と藩主居館が置かれた藩都である一方で中山道が引き込まれていた為、宿場町としての一面があった為、安中城の再整備をすると共に新たな城下町建設に邁進し下野尻村から上野尻村までの約407mを新たに町割し宿場町として割り当てられました。一般的に城下町と宿場町が両立している町は家臣の消費地となった為、必然的に人口が多く発展する例が多く、特に中山道は五街道の1つで西国大名の多くが参勤交代で利用するなど通行量が多い街道でしたが、何故か安中宿は旅籠が17軒、人口383人と宿場町としては全くと言ってよい程に発展しませんでした。理由は解りませんが、宿駅として機能するのも苦しかったとされかなり疲弊していたようです。本陣兼問屋は代々須藤家が歴任し、現在でも保管されている膨大な古文書類は当時の様子を知る資料的価値が高いものとして安中市指定文化財に指定されています。現在は宿場町内はかなり交通量が多く町屋も建替えられていますが、良質な店蔵を持つ町屋も比較的多く点在し旧宿場町らしい一面も残されています。又、城下町だった事から武家屋敷や武家長屋、安中城の鬼門鎮守だった熊野神社、井伊家関係者の菩提寺だった大泉寺などの史跡も残されています。
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