義経上陸の碑(鶴岡市)概要: 案内板によると「 兄頼朝の追討を逃れて、義経・弁慶主従が奥州平泉の里へ向う途中ここ念珠関では弁慶の機智により通ることができ更に、関守の世話で当地に宿泊、疲れをいやした。・・・・・(後略)」とあります。伝説によると京都から陸路で馬下(村上市)まで行程し、そこから難所である笹川流れを避ける為、海上を船で移動し当地に上陸し、関守だった五十嵐治兵衛宅に宿泊したと伝えられています。室町時代に編纂された「義経記」によると義経一行は陸路により念珠関まで辿り付き、余りにも厳しい取締りを受けた為、山伏姿の武蔵は義経を「歩めや法師」と怒鳴り付け何度も殴り疑念を晴らしたと記されています。何故か歌舞伎の「勧進帳」では安宅の関(石川県小松市)が舞台となっていますが「義経記」ではあくまで念珠関がその舞台となっています。
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