津金寺−中山道(信濃路):芦田宿

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津金寺(長野県北佐久郡立科町大字山部)
【津金寺】−津金寺は中山道の宿場町である芦田宿の外れに境内を構えています。案内板によると「 津金寺は慧日山修学院と号し、天台宗比叡山延暦寺を本山としている。江戸時代中期の住僧長海によって著された「津金寺由来記」によると、大宝2年(702)古代東山道を通って信濃入りした奈良薬師寺の僧行基が、戸隠権現の霊験により聖観音を安置し津金寺を開いたと伝えている。鎌倉時代に津金寺談義所としてその名が現れ、公称する天台宗最古、建治2年(1276)の学問所。所蔵する「津金寺名目」は、応安3年(1373)学僧隠海によって著された。また、戦国期にこの寺から高野山に宛てた宿坊文書や、武田信玄下付の改宗に関する朱印状などがある。春は境内裏山のカタクリを始めとする数々の山野草や叡山杉の大木(樹齢約900年)、また初秋の白萩、晩秋の紅葉、冬の雪景色など、四季折々に趣がある。  立科町教育委員会 立科町文化財保護委員会 」とあります。津金寺観音堂(立科町指定文化財)は江戸時代中期の元禄15年(1702)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、梁間3間、内部の天井絵は宝暦3年(1753)に松本藩の旧藩士が描いたもので、宮殿3基が設置されています。津金寺妙見堂(立科町指定文化財)は江戸時代後期の天保7年(1836)に造営されたもので一間社流造、こけら葺、正面1間軒唐破風向拝付き、棟梁は立川流二代目和四郎富昌と茂田井出身の田中円蔵が手掛けています。江戸時代後期から明治時代初期にかけて、神社建築は建物全体が精緻な彫刻で埋め尽くされる手法が流行り、妙見堂もその特徴が見られます。元々は津金寺の鎮守社として神道系の強い建物ですが、明治維新直後の神仏分離令により、御堂として転用したものと思われます。又、境内背後には、中世、津金寺の大旦那だったと思われる慈野氏一族の宝塔(供養塔・名称:津金寺宝塔)が3基(その内2基が鎌倉時代の承久2年:1220年、年号が明確な宝塔としては長野県最古。)あり長野県指定史跡に指定されています。又、当寺は長野県南佐久郡佐久穂町平林に境内を構える平林山千手院津金寺と、山梨県北杜市須玉町に境内を構える津金山海岸寺(旧寺号:津金寺)と共に日本三津金寺に数えられています(何れも行基菩薩が開山し、本尊も行基菩薩が彫刻したものと伝えられています)。
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