和田宿(中山道・信濃路)

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和田宿(中山道・信濃路)
【和田宿】−和田宿の集落的な発生は不詳ですが、戦国時代に大井信広により和田城が築かれ、その城下町として整備されたと思われます。天文22年(1553)、武田信玄の侵攻により和田城は落城し、当時の城主大井信定以下主要な一族は全て討死したとされ、和田城の廃城と共に城下町も荒廃しました。和田城の麓に境内を構える信定寺は大井氏の菩提寺で近くにある若宮八幡神社境内に建立されている大井信定父子の墓碑は長和町指定史跡に指定されています。江戸時代に入り中山道が開削されると宿場町として整備される事となり雨原・細尾・鍛冶足・久保などの周辺集落から住民を集め改めて町割され上町、中町、下町の3町が区割りされ、本陣や脇本陣、問屋などの主要施設は中町に設置されました。町の規模は江戸時代後期で7町58間(約870m)、特に中山道の中では難所と知られる和田峠(標高1531m、和田宿も標高820mの高所に設けられています。)を控え、隣接する下諏訪宿(長野県下諏訪町)との間は五里十八町と広く離れていた事から大名や旅人、商人などは和田宿で宿泊で利用し、最盛期には荷駄を運ぶための伝馬役が70軒ありました。文久元年(1861)の火災により和田宿の2/3の家屋が焼失する被害を受けましたが、同年に仁孝天皇の第8皇女である和宮親子内親王が14代将軍徳川家茂の御台所となる為に降嫁行列が和田宿を利用する事が既に決定事項で、特に本陣は和宮が宿泊する事になっていた事から突貫工事で復旧しています。明治時代中期以降は利用者も激減し宿場自体も衰微しましたが、大きな近代化が無かった為、旅籠河内屋(現在は資料館)、山本屋問屋、名主羽田家(現在は食堂)、本亭旅館(旧庄屋)、石合家、脇本陣翠川家(座敷棟のみ現存)などの古建築が点在し、良好な町並みも残されています。
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