坂本宿(中山道・上州路)

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坂本宿(中山道・上州路)
【坂本宿】−坂本宿は寛永2年(1625)、幕府の命により近隣の高崎藩領と安中藩領から住民を集めて町割された宿場町です。既存の集落では無く全く新しいしく計画された宿場町で規模は392間(約713m)、街道の幅員は8間1尺(約14.8m)、中央には4尺(約1.3m)幅の水路、宿場の上下の端には木戸(明け六ツ:午前6時に開門・暮れ六ツ:午後6時で閉門)、天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると本陣2軒、脇本陣2軒(最盛期は4軒)、旅籠40軒、人口732人、家屋732軒で構成されていました。坂本宿は中山道の難所として知られていた碓氷峠と、江戸時代、箱根関所と共に最も重要な関所とされた碓氷関所(群馬県指定史跡)に挟まれていた事から、松井田宿より「雨が降りやこそ松井田泊り 降らにや越します坂本へ」と歌われる程が多く、寛政2年8月8日には参勤交代の往路として加賀藩前田家、復路として松代藩真田家が同時に坂本宿に宿泊しています。本陣は金井三郎左衛門家と佐藤甚左衛門家が担い基本的には宿泊所を提供したのが佐藤家で、金井家は伝馬継ぎ立てを主に担っていたそうです。ただし、文久元年(1861)に皇女和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁として江戸に向う道中では金井本陣を宿泊所として利用しています。明治維新後に宿場制度が廃止され近代交通網が発展すると急速に衰退し明治41年(1908)に若山牧水が坂本宿を利用した際は旅籠(つたや)が1軒しかなかったそうです。現在も街道幅や屋敷割りなどは当時のままで、「かぎや」など古建築も数棟散見出来ますが、町並みとしての景観は崩れてしまっています。鎮守である坂本八幡宮は景行天皇40年(西暦110年)に日本武尊の分霊を勧請して創建された古社で、坂本宿の開宿と共に現在地に遷座し産土神として信仰されてきました。往時は旅人も坂本八幡宮に参拝してから難所である碓氷峠に向ったと思うと苔むした境内からは十分に歴史を感じる事が出来ます。
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