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【倉賀野宿】−倉賀野宿は中山道と日光東照宮へと続く日光例幣使街道が合流する宿場町です。日光例幣使街道とは閻魔堂(阿弥陀堂)で分岐し境内には文化11年(1814)に高砂屋文之助が建立した「追分・常夜燈」と「従是 右江戸道 左日光道」と彫り込まれた道標、庚申塔、馬頭観音などの石碑、石仏が建立されています。烏川を利用した利根川舟運の最大の拠点である倉賀野河岸(湊)があった事から物資の集積場としても発展し、倉賀野からは米・煙草・雑穀・絹・綿などが江戸に運ばれ、江戸からは塩・藍・御茶・糠・太平洋で水揚げされた海産物・陶器・小間物などが荷揚げされ内陸部に運ばれました。倉賀野宿には最盛期に舟問屋74軒、舟運船150余艘が活動していたとされ明治17年(1884)に高崎線が開通するまで繁栄が続きました。宿場の規模は11町38間(約1.2キロ)、上町、中町、下町で構成され、天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒、家屋297軒、人口2031人と記録されています。現在は宿場内の中山道がそのまま主要道となった為、家屋の建替えが進み往時の雰囲気が失われつつありますが、明治23年(1890)に再建された脇本陣(須賀家住宅)や白壁の土蔵も散見しています。鎮守である倉賀野神社は第10代崇神天皇の48年に皇子豊城入彦命によって創建された古社で、記録的には平安時代に編纂された上野国神名帳に正五位上大国魂大明神として記載され、倉賀野の産土神、総鎮守として歴代領主から崇敬庇護されてきました。奉納物では倉賀野宿関係者からのものが多く中でも石玉垣には倉賀野宿で働いていた飯盛女の名前が刻まれており宿場の繁栄が窺えます。その他には延徳3年(1491)に領主倉賀野五郎行信が開基として開かれた九品寺、倉賀野城主金井淡路守秀景の菩提寺である永泉寺、異形板碑が安置されてる安楽寺などが点在しています。
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