新町宿(中山道・上州路)

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新町宿(中山道・上州路)
【新町宿】−新町宿は享保9年(1724)に中山道の宿場町として町割された町で、中山道の宿場町の中では最も遅く整備されています。当初の中山道の経路は本庄宿(埼玉県本庄市)→玉村宿(群馬県玉村町)→倉賀野宿(群馬県高崎市)でしたが、中山道の交通量の増加に伴い本庄宿と倉賀野宿を最短距離で結んでいた脇道沿いにあった落合新町に慶安4年(1651)に伝馬役(伝馬の供給とそれに伴う労働に従事する課役)が命ぜられ、同様に承応2年(1653)には笛木新町に命ぜられました。脇道の経路の方が便が良かった事から次第に利用量が増加し、結果的には中山道の経路変更が行われ落合新町と笛木新町が合併し新町宿が開かれる事になりました。新町宿は神流川と烏川に挟まれ、特に神流川は度々氾濫を繰り返した事で川止めの宿としても多くの旅人や商人達が利用する事になりました。又、舟運の拠点である新町湊(河岸)を擁していた事で物資の集積地となり経済的にも発展し天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」では本陣2、脇本陣1、旅籠43軒と記録され繁栄が窺えます。本陣は小林甚左衛門家と久保五左衛門家が歴任し、両家の建物は共に失われていますが、小林家は建坪135坪、久保家の規模はやや小規模で文久元年(1861)に皇女和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁として江戸に向う途中に御小休所として利用されています。宿場の繁栄に伴い、多くの飯盛女が働いていたとされ、飯盛女が信仰していた於菊稲荷神社では多くの絵馬が掲げられていると共に不思議な伝説も伝わっています。史跡も多く新町諏訪神社や於菊稲荷神社、明治天皇行在所(明治天皇の巡幸の際に宿所)、旅籠「高瀬屋」跡碑(文化7年に俳人小林一茶が宿泊した旅籠)、浄泉寺、専福寺、諏訪神社などが点在しています。
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