北国街道(善光寺街道:海野宿など)

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概要・歴史・観光・見所

【追分宿】−追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町)は中山道北国街道(善光寺街道)との分岐点として発展した町で江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒(元禄年間には旅籠71軒、茶屋18軒、商家28軒)となっています。鎮守である浅間神社の創建は不詳ですが古くから信仰されてきた古社で本殿は室町時代末期の建築の遺構として貴重な事から軽井沢町指定文化財に指定されています。

【小諸宿】−小諸宿(長野県小諸市)は小諸藩の藩庁と藩主居館が置かれた小諸城(日本100名城・日本さくら名所100選・大手門、三之門は国指定重要文化財)の城下町として発展した町です。街道沿いには本陣(国指定重要文化財)や脇本陣の遺構や、海応院や光岳寺などの寺社仏閣、まんまち町屋館や北国街道与良館、酢久商店などの古民家が点在しています。小諸宿の町並みから少し離れると、布引観音(釈尊寺)の境内へと続く追分があり道標が建立されています。布引観音では自堕落で宗教心の無い老婆が布引観音の化身である牛を追いかけ善光寺に至り改心するという伝説が流布され、善光寺詣で北国街道を利用する参拝者からは恰好の観光地の1つでした。長野県には布引観音以外にも「片参り」という事を唱えた元善光寺(長野県飯田市)や別所北向観音(長野県上田市)、三所参りを唱えた善光寺(長野県諏訪市)などあり全国から集まった善光寺詣での人々の関心を引く努力が成されました。

【田中宿・海野宿】−田中宿(長野県東御市)は北国街道が開削された際、周辺の集落から住民を集めて成立した宿場町で、当初は隣接する海野宿と合宿で15日で伝馬役を交代していましが、本陣、脇本陣共に田中宿の方に置かれ立場的には上位にありました。寛保2年(1742)の大洪水で田中宿が大破すると、本陣や脇本陣など宿場の主要機能は海野宿に移され、海野宿の方が上位(本宿)となりました。その後、田中宿も復興し形式的には同格とされ再度本陣が設けられましたが、海野宿の優位性は変わらず、大名家も海野宿の本陣を利用したとされます。海野宿は古い町並みが色濃く残され国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

【上田宿】−上田宿(長野県上田市)は上田藩の藩庁と藩主居館が置かれた上田城(国指定史跡・日本100名城)の城下町として発展しました。上田城は戦国時代に真田家の居城として、大軍を率いた徳川軍を2度に渡り撃退し天下に名を馳せました。城下には真田家や歴代上田藩主の史跡が点在し北国街道沿いにある柳町付近は現在でも良好な町並みを有しています。

【坂木宿】坂木宿(長野県埴科郡坂城町)は戦国時代、長く当地を支配した村上氏の居城である葛尾城の城下町として発展しました。特に村上義清は信濃の有力大名として成長し何度も武田信玄の信濃侵攻を押え名を馳せませたが、家臣の寝返りにより戦線が維持出来なくなり越後の上杉家を頼り当地を離れています。江戸時代に入り北国街道が開削されると宿場町として整備され、飯盛女を抱え繁盛しました(明治時代には遊郭が政府から許可されさらなる発展がありました)。又特産物である煙草や養蚕、絹製品の生産拠点として経済的にも発展しました。街道沿いには大型民家も点在し往時の繁栄が窺えます。 

【上戸倉宿・下戸倉宿】−上戸倉宿(長野県千曲市)と下戸倉宿は合い宿で、下戸倉宿が月の初めから21日まで、上戸倉宿が22日から月末まで宿場の役目を務めました。上戸倉宿の本陣は江戸時代末期まで玉井家、その後は小出家が勤め、小出家には広い屋敷と表門が残されています。下戸倉宿の方が大きく栄え、宿場には複数の飯盛女が働き、鎮守である水上布奈山神社の境内には飯盛女達が奉納した石灯籠(千曲市指定文化財)が残されています。街道沿いの蔵元坂井銘醸の建物は大型の茅葺屋根の町屋建築で国登録有形文化財に指定されています。

【屋代宿】−屋代宿(長野県千曲市)は北国街道谷街道との交通の要衝として発展しました。鎮守である須々岐水神社は貞観9年に従五位に列した古社で古くから周辺18ヶ村の総社として信仰されていました。当初は速秋津彦命 速秋津姫命 罔像女命など水神が主祭神として信仰されてきましたが、多くの神社と合祀し明治維新後に現在の社号に改め大國主命や生魂命が主祭神となっています。

【丹波島宿】−丹波島宿(長野県長野市)は善光寺を庇護した松代藩の藩主真田家の居城、松代城の城下を結ぶ松代道の分岐点でもあり交通の要衝でした。宿場の成立は慶長16年(1611)、その際、諏訪社を勧請して宿場の鎮守として社号を「於佐加神社」に改めています。

【善光寺宿】−善光寺宿(長野県長野市)は北国街道の宿場町であると共に善光寺の門前町として発達した町です。江戸時代中期以降、庶民にも行楽思考が高まると善光寺詣が全国的に爆発的に広がり、多くの信者や参拝者が訪れ、門前には数多くの宿坊や茶屋が軒を連ねました。善光寺は皇極天皇3年(644)に創建したと伝わる古刹で歴代の為政者や領主から信仰の対象となりました。戦国時代に入ると本尊の一光三尊阿弥陀如来の争奪戦があり、伝承によりと上杉謙信、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がそれぞれ手にしたと伝えられています。

【新町宿】−新町宿(長野県長野市)は江戸時代初期に北国街道が開削された際に周辺の集落が集められて成立した宿場町です。交通の要衝で渋温泉や草津温泉とを結ぶ草津街道との分岐点でもありました。宿場は大きく稲積村、徳間村、東条村の3村で形成され、それぞれ10日間毎に宿場の役目を担いました。

【牟礼宿】−牟礼宿(長野県上水内郡飯綱町)は参勤交代で北国街道を利用した加賀藩の藩都である金沢城(石川県金沢市)の城下町と江戸の中間にあたる事から、藩主前田家が牟礼宿に到達すると金沢城と江戸の加賀藩邸両方に無事を知らせる早馬が発せられ、藩費により「武州加州道中堺碑」が建立されました。又、佐渡島の佐渡金山で産出した金を江戸に運ぶ際の中継地となった為、金を収める幕府の御金蔵が設けられました。

【古間宿・柏原宿】−古間宿(長野県上水内郡信濃町)と柏原宿は合い宿で、月の前半は柏原宿、後半は古間宿が宿場の役割を担いました。柏原宿は戸隠神社へと続く戸隠山道との分岐点だった為、古間宿よりも規模が大きく、本陣は加賀藩主前田家が参勤交代の際の宿所として利用されました。又、柏原宿は小林一茶の生誕地でもあり、晩年過ごした土蔵が残されています。

【野尻宿】−野尻宿(長野県信濃町)は越後国(新潟県)と信州国(長野県)の国境に近い事から重要視された宿場町です。特に佐渡島の佐渡金山で産出した金を江戸に運ぶ際の中継地となった為、宿場近くにあった安養寺境内には幕府の御金蔵が設けられ柏原宿・古間宿・野尻宿の村役人が警護して牟礼宿の御金蔵まで運ばれました。

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