弘前城の城下町概要: 初代藩主津軽為信が弘前城(青森県弘前市)の築城を開始し2代信枚の代慶長15年(1610)に梯郭式平山城として一応の完成し、以来、弘前藩の中心である弘前城の城下町として発展しました。羽州街道は弘前城を基点とした為、松森町で堀越道と合流し城下に入り和徳制札場を左折して弘前城の東に当たる東御門町境に至り、形式的には東御門町境から和徳制札場まで再び同じ道を辿り油川宿に進路を替えることになります。天明8年(1788)年に訪れた古川古松軒によると弘前城下の戸数は3000戸程で整備され風俗的にも規律あるものだったとされます。現在でも弘前市には重要伝統的建造物群保存地区に指定されている仲町を始め文化財指定されている社寺などが点在し小京都にも選定されています。
弘前城の城下町は軍師である沼田面松斎が陰陽五行、 四神相応(中国の思想で大地の四方の方角を司る「四神」が存在する場所を吉とした。)の思想と兵法学の両面から計画した町で、弘前城の北東方向には鬼門鎮守として弘前八幡宮が遷座され、同じく鬼門鎮護で八幡宮の別当となった最勝院が境内を構えました。藩主である津軽家の出生には諸説ありますが、一般的な説としては南部家の一族である久慈家の出身とされ、南部家は源氏の後裔である事から源氏の氏神である八幡神が鬼門鎮守になったと思われます。最勝院は津軽家が堀越城時代の頃から縁があり弘前城を築いた際は地鎮を行い、津軽家歴代の祈願所、津軽真言五山の格式を得て寺領300石が安堵されました。弘前城から見て南西方向にあたる裏鬼門には津軽家の菩提寺である長勝寺が配されました。長勝寺は津軽家の祖とされる南部光信が死去すると居城である種里城の一角に葬られ、跡を継いだ大浦盛信が種里城の城内に創建した寺院で歴代の菩提寺とされました。又、長勝寺の到る参道は禅弾林と呼ばれる寺町が形成され、その全体は長勝寺構と呼ばれる弘前城の防衛施設でもありました。
弘前城を四神相応の面から見ると、東は青龍(土淵川又は平川:流水)、西は白虎(西浜街道:大道)、北は玄武(梵珠山:丘陵)、南は朱雀(南溜池:水地)に見立て対応させていました。青龍は城下の東方を流れる土淵川、又は郊外の大河である平川が見立てられ、弘前城から見て東方で土淵川の前面に鎮座する弘前東照宮は正に「東」の象徴的存在です。又、平川との関係性が高い猿賀神社(平川市)の奥殿と本堂の龍の彫刻は青龍を見立てられていると云われ、別当寺院だった神宮寺は津軽天台四山に数えられ寺領100石が安堵されています。
白虎が司る大道は西浜街道(大間越街道)に見立てられ、 江戸時代初期は津軽家の参勤交代には西浜街道(大間越街道)を利用していました。江戸までの最短距離でいえば奥州街道を利用するのが一番便利と思われますが、盛岡藩主南部家と津軽家とは確執があり、さらに四神相応の面からも西浜街道(大間越街道)が最適だったと思われます(ただし、羽州街道が整備されると参勤交代には羽州街道を利用しています)。さらに、津軽一ノ宮で津軽家の崇敬社だった岩木山神社の社殿には虎の彫刻が施されており白虎に見立てたとも云われています。別当だった百沢寺は津軽真言五山の格式で寺領400石、塔頭10ヵ寺を擁する大寺院として発展しました。
玄武が司る丘陵は梵珠山(標高:468m)とされますが、 明確では無く諸説あるそうです。梵珠山は古くから霊山として知られ、法明坊(役小角の高弟)や坂上田村麻呂、安倍晴明が開いたとも云われる伝説の地で津軽三千坊とも呼ばれる一大宗教都市だったとも云われています。その他の説としては弘前城の北側に当たる三世寺や浪岡八幡宮などが挙げられます。又、西浜街道(大間越街道)が参勤交代で利用していた時期は弘前城の北側が正門である大手門で、玄武は亀に蛇が巻き付いたような神獣だった事から亀甲門と呼ばれ、その門に面した町を亀甲町と読んで玄武に見立てたとも云われています。
弘前城が築城された当時、朱雀が当てはまる水地が無かった為、土淵川と寺沢川の合流付近(現在の弘前大学医学部グランド付近)に土手を築いて人口の池を築造し南溜池と称し、朱雀の水地に見立てました。南溜池のさらに南方には津軽家の菩提寺の1つである報恩寺が控えていました(朱雀には久渡寺や阿闍羅三千坊にあてる説もあります)。
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