中山道(岐阜県:美濃路・落合宿〜今須宿)

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概要・歴史・観光・見所

【落合宿】−落合宿(岐阜県中津川市)は三州街道の飯田宿(長野県飯田市:飯田城の城下町)とを結ぶ大平街道と中山道が分岐する交通の要衝で、難所である十曲峠を控えた事から発展した宿場町です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、家屋数75軒、本陣は代々井口家が担い、庄屋や問屋も兼任した事から落合宿では大きな影響力を持ちました。又、落合宿本陣は加賀藩主前田家の参勤交代の際の常宿で、皇女和宮や明治天皇も御小休で利用した事から国指定史跡に指定されています。

【中津川宿】中津川宿(岐阜県中津川市)は周辺の経済的な中心的な存在で江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1、旅籠29軒、家屋228軒と周辺の宿場町と比べると大きく発展しました。江戸時代末期には平田篤胤の教えに大きく傾倒した住民が多くいた事から水戸天狗党を受け入れ、長州藩主毛利慶親と桂小五郎らによる「長州藩中津川会議」の舞台にもなっています。又、霊山と知られる「恵那山」への登拝口でもあり多くの信者や参拝者が中津川宿を利用しました。現在でも古い町並みの一部が残り特に肥田家住宅(中津川村庄屋居宅)は江戸時代中期に建てられた貴重な建物として中津川市指定文化財に指定されています。

【大井宿】大井宿(岐阜県恵那市)は中山道と名古屋城下(愛知県名古屋市)を結ぶ下街道との分岐点だった事から多く旅人や商人が利用しました。特に江戸時代中期以降は庶民にも行楽志向が広まると上りは善光寺詣り、下りは伊勢詣りを行う人達が急速に増加して大井宿も繁栄し、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒、家屋110軒、宿場の長さは6町(約710m)となりました。大井宿は横町、本町、堅町、茶屋町、橋場の5町で構成されそれぞれ枡形を設けた事から宿場内には合計6箇所の枡形があり通常の宿場町とは異なる町割がなされました。本陣は昭和に入り焼失しましたが表門と庭園が残され岐阜県指定史跡に指定されています。

【大湫宿】大湫宿(岐阜県瑞浪市)は山間の宿場町で十三峠を控える要地だった事から尾張藩の白木改番所が設けられ、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒あり、西町、神明町、中町、白山町、北町の5町で構成されていました。江戸時代末期の文久元年(1861)10月28日には皇女和宮(仁孝天皇第8皇女)の徳川将軍家(4代将軍徳川家茂)降嫁の際、大湫宿本陣が宿泊地となっています。現在でも古い町並みが残され脇本陣、三浦家住宅(旅籠)、森川家住宅(訓行家)、森川家住宅(善章家)が国登録有形文化財、大湫観音堂の絵天井は瑞浪市指定有形文化財に指定されています。

【細久手宿】細久手宿(岐阜県瑞浪市)は江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒、上町、中町、下町の3町で構成され宿場の長さは3町45間(約400m)ありました。大黒屋(問屋:酒井吉右衛門家)は安政5年(1858)の大火後に再建されたもので尾張徳川家の常宿とした為、尾張藩の本陣としての格式を有した貴重である事から国登録有形文化財に登録されています。

【御嶽宿】−御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)は中山道の宿場町と共に願興寺(天台宗、中部四十九薬師霊場第四十九札所、木造薬師如来及び両脇侍像や本堂、木造薬師如来及び両脇侍像、 木造阿弥陀如来立像、木造阿弥陀如来坐像、木造釈迦如来及び両脇侍像、木造四天王立像、木造十二神将立像が国指定重要文化財)の門前町として発展し江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒となりました。現在の御嶽宿の古い町並みは失われつつありますが明治10年(1877)頃の建てられたと推定される竹屋(商家:本陣職野呂家の分家)の主屋と茶室が御嵩町指定有形文化財に指定されています。

【伏見宿】伏見宿(岐阜県可児郡御嵩町)は元禄7年(1694)に成立した宿場町で木曽川の川止宿、木曽川舟運の川湊(新村湊)として発展しました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒があり数多くの飯盛女も働いていました。宿場近くに境内を構える洞興寺(臨済宗妙心寺派)には伏見宿で亡くなった飯盛女の菩提を弔う為に建立された「女郎塚」があり名残を見せています。文政7年(1824)に伏見宿に駱駝が来た事に因み三吉屋(旧旅籠)の建物には「らくだ」の表示が掲げられています。

【太田宿】−太田宿(岐阜県美濃加茂市)は交通の要衝で「太田の渡し」は中山道三大難所として知られ「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と唄われました。又、周辺地域の行政、軍事の中心でもあり、尾張藩は宿場内に太田代官所を設けて重要視しました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、問屋3軒、旅籠20軒、宿場の長さ6町14間(約680m)あり上町、中町、下町の3町で構成されていました。現在でも古民家が点在し中でも脇本陣職を担った林家住宅は往時の太田宿の遺構として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

【鵜沼宿】−鵜沼宿(岐阜県各務原市)は慶安3年(1651)に成立した中山道の宿場町です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、家屋68軒、大きく東町と西町に分かれ、宿場長さ7町半余(約820m)、明治24年(1891)の濃尾地震で多くの建物が倒壊しましたが、その後建てられた古民家が街道沿いに軒を連ね宿場町らしい町並みが見られます。中でも旅籠(屋号:茗荷屋)を担った梅田吉道家が江戸時代に建てられた唯一の建物として貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。

【加納宿】−加納宿(岐阜県岐阜市)は加納藩の藩庁、藩主居館が置かれた加納城(国指定史跡)の城下町として発展しました。宿場町と城下町の両方の機能を満たした事から中山道有数の大宿となり、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、家屋805軒、人口2728人が記録されています。当地は戦国時代に斎藤氏、織田信長が岐阜城(国指定史跡・日本100名城)を居城とし美濃国の中心を担いましたが関ヶ原の戦いで当時の城主織田秀信(幼名・三法師)が西軍に与した事で東軍諸将に攻められ落城し廃城となりました。岐阜の地は軍事的重要拠点の1つだった為、江戸時代に入ると徳川家康の命で重臣である奥平信昌を加納城に配しています。

【河渡宿】−河渡宿(岐阜県岐阜市)は長良川の川止めの宿で江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠24軒、東町、中町、西町の三町で構成され宿場の長さは三町(約330m)でした。洪水が度々起こりその都度宿場が大破した事から文化12年(1815)の洪水後に約1.5mの土盛りが行われ、その上部に宿場が再興されました。

【美江寺宿】−美江寺宿(岐阜県瑞穂市美江寺)は天正17年(1589)に豊臣秀吉の命により問屋場が設けられ寛永14年(1637)に中山道の正式な宿場町となりました。当初は本陣が設けられていませんでしたが寛文9年(1669)に山本家が本陣職に就任し以後山本家が歴任しました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠11軒、家屋136軒。地名の由来となった美江寺は養老3年(719)に創建された古寺で養老7年(723)に勤操(東大寺別当)によって寺院として開山しています。天文8年(1549)斎藤道三が岐阜城を築く際、城の裏鬼門(西南方向)鎮護の為に現在の岐阜市美江寺町に移転しましたが鎮守社だった美江神社は当地に残され、永禄10年(1567)には織田信長が境内に美江寺観音を造営しています。

【赤坂宿】−赤坂宿(岐阜県大垣市)は杭瀬川の川待つ宿と同時に杭瀬川舟運の拠点として発展し最盛期には赤坂港に300隻の舟運船が出入りしたとされます。又、赤坂周辺は石灰や大理石の産地でもあった為、赤坂港もその積出し港となりました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒、家屋292軒、明治維新で街道制度が廃止後も舟運の拠点として発展し周辺の経済的な中心となりましたが大正時代に鉄道や近代交通が整備されると急速に衰微しました。脇本陣を務めた榎屋の遺構が残され近年まで榎屋旅館として営業されていました。

【垂井宿】−垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)は古くから交通の要衝として重要視されました。中山道と東海道の宮宿と結ぶ美濃路との分岐で南宮大社の門前町でもあった事から多く旅人や商人が利用し多くの物資が集められ、宿場では六歳市が開かれ毎月5日と9日には周辺から多くの人が集まり賑わいました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、家屋315軒、宿場内にある「垂井の泉」は古くから歌枕の地として知られ多くの著名人が歌やはいくの題材としています。南宮大社は神武天皇の即位の年に勧請された古社で延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では明神大社として記載され美濃国一宮として信仰の対象となりました。

【関ヶ原宿】−関ヶ原宿(岐阜県不破郡関ケ原町)は古くから交通の要衝として重要視され、古代の官道である東山道の関所「不破関」が設けられていました。度々戦場にもなり「壬申の乱」や「関ヶ原の戦い」の舞台となり周辺には関連した史跡が点在しています。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒、家屋269軒、人口1389人。

【今須宿】今須宿(岐阜県不破郡関ケ原町)は中山道の宿場町と同時に妙応寺の門前町として発展しました。特に人馬・荷物の継ぎ立場となった事から今須宿には7軒の問屋が設けられ賑わいました。妙応寺は南北朝時代の正平15年(1360)に創建された古寺で今須城の城主長江家の菩提寺として寺運が隆盛しました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒、家屋464軒、人口1784人。

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