中山道(木曽路)

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概要・歴史・観光・見所
【贄川宿】贄川宿長野県塩尻市)は木曽路最初の宿場町で木曽谷の入口にあたり要地だった為、贄川番所(福島関の添番所、特に木曽産の木材や工芸品など許可なく領外に輸出するのが取りしまわれた)が設けられ、明治2年(1869)に街道制度が廃止されるまで続けられました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒と比較的小規模で、街道整備が廃止になると重要性が失われ衰微し、昭和5年(1930)の大火により多くの建物が失われました。その中でも深澤家住宅は当時のまま残され国指定重要文化財に指定されています。鎮守である麻衣迺神社は天慶年間(938〜947年)に勧請された古社で本殿が江戸時代中期の建物として貴重な事から塩尻市指定文化財に指定されています。

【奈良井宿】奈良井宿(長野県塩尻市)は木曽路2番目(江戸方面から)の宿場町で、木曽路の中でも難所とされる鳥居峠を控え多くの旅人や商人達が奈良井宿を利用した為、「奈良井千軒」と云われる程に繁栄しました。しかし、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒と、正式に認められた宿泊施設はかなり少なく、木曽産の木材を利用した工芸品を製作する職人が数多く住んでいた事が窺えます。その為、2000〜3000人と木曽路では最大級の人口を擁し、町も下町、中町、上町に別れ、山沿いには神社仏閣も設けられました。奈良井宿は現在でも良好な町並みが残され国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

【藪原宿】藪原宿(長野県木曽郡木祖村)は木曽路3番目(江戸方面から)の宿場町で江戸から65里35町16間(259.1キロ)、京都から69里34町17間(274.7キロ)、高山方向を結ぶ飛騨街道奈川道の分岐点があり、難所である鳥居峠を控えていた事から多くの旅人が宿場を利用して繁栄し特産物だった「お六櫛」の産地としても栄えました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒があったと記録され、本陣は古畑家が歴任し間口14軒半、奥行21間半と木曽路最大級の規模を誇りました。度々火災があった事から宿場内には石垣による防火高壁が設けられ延焼防止の工夫が行われました。鎮守である薮原神社は天武天皇9年に勧請された古社で本殿は文化10年(1827)の古建築として貴重な事から木祖村指定文化財に指定されています。

【宮ノ越宿】宮ノ越宿(長野県木曽郡木曽町)は木曽路4番目(江戸方面から)の宿場町で江戸から66里35町(約268キロ)、伊那方向とを結んだ権兵衛街道との分岐点でもあり繁栄しました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒、宿場長さ4町34間、宿場内には延焼用の高塀なども設置されていました。又、宮ノ越宿は木曽義仲縁の地として知られ菩提寺とされる徳音寺の境内には義仲や巴御前、小枝御前(義仲の母)などの墓碑(供養塔)が建立されています。明治16年(1883)の大火により江戸時代以前の多くの建物が焼失しましたが、その後の建てられた古民家が軒を連ね落ち着いた町並みを形成しています。

【福島宿】−木曽宿(長野県木曽郡木曽町)は木曽路5番目(江戸方面から)の宿場町です。中世は木曽一帯を治めた木曽氏の城下町として発展し、徳川家康の関東移封に伴い木曽氏が関東に移封になると家臣筋の山村氏が当地を治めました。山村氏は関ヶ原の戦いの際にも中山道を利用して西上した徳川秀忠軍の道案内などで功を上げ、江戸時代には木曽地域の代官職を賜りました。その為、福島宿は木曽路の中でも行政的中心として重要視され、日本四大関所の一つに数えられた福島関所が設けられ厳重に人や荷物の出入りの管理が行われました。福島宿は江戸時代後期に本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒となりました。現在も山村家代官所跡や福島関所跡、興禅寺などの史跡や、上ノ段の古い町並みなどが残されています。

【上松宿】上松宿(長野県木曽郡上松町)は木曽路6番目(江戸方面から)の宿場町です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、宿場長さ5町31間。名勝が多く「木曽の桟(日本三奇橋、日本百名橋の番外、長野県指定史跡、歌枕、木曽八景)」や「寝覚の床(国指定名勝、木曽八景、浦島太郎伝説)」、「小野の滝(木曽八景)」などが点在しています。昭和25年(1950)の火災により江戸時代以前の建物の多くは失われましたが上町だけが延焼を免れた為、一部古い町並みが残っています。

【須原宿】須原宿(長野県木曽郡大桑村)は木曽路7番目(江戸方面から)の宿場町です。当初は木曽川の川沿いにありましたが正徳5年(1715)の大洪水で大きな被害を受け、享保2年(1717)に現在地に移転し江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒、宿場長さ4町35間となっています。水舟と呼ばれる木をくり抜いて作られた水汲み場が点在する宿場町、「水舟の里」として知られ、比較的良好な町並みを残しています。宿場端にある定勝寺は嘉慶年間(1387〜1388年)に創建し木曽三大寺に数えられる古刹として知られ、本堂、庫裡、山門が古建築として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

【野尻宿】−野尻宿(長野県木曽郡大桑村)は木曽路8番目(江戸方面から)の宿場町です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒。宿場内は枡形と思われる多くの曲がり角があるのが大きな野尻宿の特徴で「七曲り」とも呼ばれています。奈良井宿に次ぐ宿場長さで、東端には「いぼ石」と呼ばれる巨石(この石に触ると「いぼ」が完治すると信仰された)が有り上部には高さ約2mの石碑が建立され「南無妙法蓮華経」と刻まれています。数多くの火災により江戸時代の建物はありませんが、その後に建てられた古民家により落ち着いた町並みが見られます。

【三留野宿】−三留野宿(長野県木曽郡南木曽町)は木曽路9番目(江戸方面から)の宿場町です。古くは木曾氏の城があり「御殿」が転じて「三留野」と呼ばれるようになったとされます。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒となっています。現在の町並みは明治14年(1881)の大火に再建されたものですが「出梁造り」古民家も点在して雰囲気が僅かに残っています。等覚寺の円空堂には「円空仏」や「天神像」、「弁財天坐像と童子像」が安置されています。

【妻籠宿】妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)は木曽路10番目(江戸方面から)の宿場町です。三州街道の飯田宿(飯田城下:飯田市)と妻籠宿を結んだ大平街道との分岐点でもあり、多くの旅人や商人が妻籠宿を利用しました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒、明治時代に再建された脇本陣だった奥谷家の邸宅が国指定重要文化財に指定されています。現在でも良好な町並みが残され国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

【馬籠宿】馬籠宿岐阜県中津川市馬籠)は木曽路11番目(江戸方面から)の宿場町です。現在は岐阜県に属していますが、江戸時代は信州(現在の長野県)に属し木曽路最後の宿場町でした。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で構成されていました。本陣職を歴任した島崎家は島崎藤村の生家で代表作の1つ「夜明け前」は馬籠宿が舞台となって幕末から明治初期の宿場町の様子が描かれています。

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