追分宿(中山道・信濃路)

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追分宿(中山道)
【追分宿】−追分宿は中山道北国街道(善光寺街道)が合流する宿場町として多くの大名や旅人、商人などが利用しました。中山道には元々多くの西国大名が参勤交代で利用し五街道に数えられていますが、北国街道も加賀藩、高田藩、富山藩、大聖山藩、与板藩、飯山藩、松代藩、須坂藩、上田藩、小諸藩と北陸や信州西部の諸大名が利用しされに、佐渡島で産出される金を江戸まで運ぶ経路でもあり五街道に準じる街道だったので、その2つの街道が合流する追分宿には必然的に繁栄する要素を含んでいました。本陣は土屋市左衛門家が歴任、上記のように追分宿を利用する大名が多かった事から屋敷も広大で、母屋の建坪238坪は中山道の宿場町の中でも塩尻宿(長野県塩尻宿)、上尾宿(埼玉県上尾市)に次ぐ3番目の規模を誇り、敷地内には御影陣屋支配下貫目改所(幕府が宿場の問屋場に設置した機関で宿場内を通過する荷物の重量の検査が行われた。追分宿は小諸に置かれた天領代官所である御影陣屋の支配を受けました。)が設置されていました。土屋家は本陣職の他、問屋も兼ねていた為、宿継、伝馬人足の継立ても生業とし明治11年(1878)の明治天皇の御巡幸の際には御宿泊で利用されています。明治維新後に宿場制度が廃止となり近代交通網が整備されると衰微し本陣も明治末期には解体、唯一残された「本陣裏門」は歴史の生き証人としても貴重で軽井沢町指定歴史的建造物に指定されています。宿場全体を見ても元禄年間(1688〜1704年)には旅籠が71軒、茶屋18軒、商店28軒と繁栄していましたが、現在古建築と思われるものは僅か数軒程度になっています。小説家、堀辰雄の作品「菜穂子」や「ふるさとびと」の舞台でもあり(旧脇本陣の「油屋」は小説の中では旅館「牡丹屋」として表現)、室生犀星、中村慎一郎、三好達治、野村英夫、津村信夫、今井慶松、河上徹太郎、嘉門安雄、深田久弥など多くの文人墨客からも利用され作品の題材となっています。松尾芭蕉も「更科紀行」の際には中山道の追分宿を利用したようで「ふき飛す石も浅間の野分哉」の句を残し、鎮守である浅間神社の境内には芭蕉句碑が寛政5年(1793)に建立されています。浅間神社の創建は不詳ですが本殿は室町時代に造営された現在軽井沢町に現存している最古の木造建築物で追分宿の歴史の深さが感じられます。
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