北陸道(富山県)概要: 北陸道は越中国を縦断する街道で、加賀藩とその支藩である大聖寺藩、富山藩の参勤交代で利用した為に重要視されました。
【倶利伽羅峠】−倶利伽羅峠は越中国と加賀国との国境にあたり、源平合戦の際には所謂「倶利伽羅峠の戦い」で木曽義仲率いる源氏軍と平維盛を総大将とする平家軍との激戦が繰り広げられ、敗れた平家軍は総崩れとなり、平家の凋落が顕著となっています。現在も街道の雰囲気が良く残り「歴史の道百選」や「歴史国道」に選定されています。
【今石動宿】−今石動宿は天正14年(1586)に前田利秀が石動城の城主となり本格的な城下町として整備され当地方の中心地として発展しました。一国一城令が発令されると石動城は廃城になりましたが、前田家が参勤交代の際に宿所として利用された御旅屋や加賀藩の町奉行所、郡奉行所が設置され引き続き要地として重要視されました。経済的にも物資の集積地となり、北陸道の宿場町的にも難所である倶利伽羅峠を控えていた事で多くの旅人や商人が石動宿を利用しています。
【高岡宿】−高岡宿は加賀藩初代藩主前田利長が隠居城として築いた高岡城(日本名城100選)の城下町として発展した町です。石動城と同様に一国一城令後に廃城になりましたが、事実上の城郭として維持され当地方の軍事、行政の中心となりました。利長の廟所や菩提寺である高岡山瑞龍寺(国宝)がある一方、町並みも良好に残され、北陸街道沿いの商家町として発展した「山町筋」と、利長が殖産興業として力を入れた鋳物業者が集まった「金屋町」は国の重要伝統的建造物郡保存地区に選定されています。
【小杉宿】−小杉宿は明暦4年(1658)に北国街道の経路が変更となり新たに整備された宿場町で、交通の要衝として多くの物資が集められ集積場として発展しました。宿場内には本陣の他、砺波射水郡奉行も設置され行政的にも周囲の中心となりました。
【岩瀬宿・湊】−岩瀬宿は北陸道の宿場町と共に、北前舟の寄港地(岩瀬湊)として知られ、街道沿いには多くの廻船問屋が軒を連ね大きく繁栄しました。湊内には加賀藩の御蔵や御旅屋が設けられ、加賀藩が定めた加賀河東七浦(東岩瀬、水橋、滑川、魚津、生地、泊、境)の港町として重要視され多くの物資が集積されました。明治時代初期の大火で多くの町屋は焼失しましが、その後に建てられた明治時代の古民家が数多く残され往時の繁栄が窺えます。特に森家住宅は北前船回船問屋の遺構として貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
【魚津宿】−魚津宿は魚津城の城下町として整備された町で、加賀藩領の他の城と同様に江戸時代初期に廃城となり、その跡地が奉行所や藩主の御旅屋が設けられました。江戸時代を通して当地方の中心都市として発展しています。
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