倉谷宿(会津西街道・下郷町)

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倉谷宿・歴史・観光・見所
倉谷宿(下郷町)概要: 倉谷宿(福島県下郷町)は会津西街道(下野街道)の4番目の宿場町で、古くは串谷と呼ばれていましたが、高倉宮以仁王が集落と縁を持った事から高倉宮の「倉」の字に因み倉谷に改称したと伝えられています。高倉宮以仁王は後白河天皇の第三皇子で平家打倒を画策しましたが、計画が平家方に露呈し準備が整わないなかで挙兵した為、討死したとされます。しかし、遺体を見た人がいなかった為、東国に逃れたという伝説が残り、大内宿でも逃避伝説が残り鎮守社である高倉神社は以仁王を祭っています。倉谷宿が以仁王とどの様に関わったのかは不詳ですが事実であれば倉谷宿を通過し中山峠を越えて大内宿に入った事となり興味深いところです。幕末には戊辰戦争の舞台になった場所でもあり、慶応4年(1868)8月末以来に倉谷宿に駐屯していた新政府軍でしたが、9月9日に会津藩家老佐川官兵衛率いる奇襲部隊に襲撃され、敗北、一時撤退しています。

倉谷宿は古くから交通の要衝で大内宿側の背後には中山峠、楢原宿側には八幡峠が控えていました。又、会津若松に至る会津西街道と戸石に向う分岐点でもあった為、多くの物資が集められ江戸時代初期には六歳市が立つなど経済的にも豊かな時代もありました(宿場の大内宿側の外れには「右ハ若松 左ハ戸石」との道標が設置されています)。元禄4年(1691)の時点では家屋27軒、人口210人、大きく倉谷地区と水抜地区とに別れ中央付近には代々本陣職を担った猪股家(敷地間口が広い為、現在でも大型な木造、寄棟、平入の民家が建っています。他の間口が狭い民家は妻入と、大内宿などと同じ構成になっています。)や松庵寺がありました。昭和時代の火災により大きな被害を受けましたが水抜地区側の街道沿いには入母屋、妻入、鉄板葺の建物が建ち並び当時の宿場町の様子を伝えています。

倉谷宿
倉谷宿:町並み
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倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み
倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み
倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み 倉谷宿:町並み
倉谷宿:観光・見所
松庵寺
松庵寺
松庵寺
 
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