白河街道

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白河街道概要
白河街道概要: 白河街道(白河市側からは会津本街道や会津越後街道などと呼ばれていた。)は会津五街道の1つで現在の会津若松市と白河市を結ぶ街道です。特に江戸時代に発展し、会津西街道(下野街道)が不通になると奥州街道へ抜ける主要街道へ整備され会津藩をはじめ新発田藩(新発田市−新発田城)と村上藩(村上市−村上城)の参勤交代に利用されました。越後街道の延長として、佐渡金山へ続く佐渡三道(三国街道北国街道)の一つと数えられ、五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)に次ぐ街道として重要視されました。滝沢峠、沓掛峠、黒森峠、勢至堂峠と短い街道の中で多くの峠がある為、その両側に宿場が設けられ、宿場間の距離は比較的短いと言えます。当初は鶴ヶ城の東側に位置する東山温泉を通過し背あぶり山を越え猪苗代湖の湖畔に至るルートで天正18年(1590)に豊臣秀吉が奥州仕置の際にも利用されていましたが加藤嘉明が会津藩主の時代に滝沢峠を開削しあらたな白河街道の経路とし、それに合わせて鶴ヶ城の大手筋も改修されました。又、通行の便が良く街道筋も整備されていた事から戊辰戦争で白河城(小峰城)が落城すると会津藩は新政府軍が白河街道利用して鶴ヶ城に進軍すると読み主力を布陣していましたが、新政府軍は裏をかき、白河街道には陽動の兵が派遣され、難所だったものの防御が薄かった母成峠に主力を導入し会津領に侵攻、猪苗代城を突破して鶴ヶ城に至っています。白河街道には会津軍によって幾つのもの塹壕が築かれましたが無用の長物となっています。

白河街道の宿場町: 福良宿は会津城下から略1日の行程だった事から宿泊する人が多く、猪苗代舟運の拠点として多くの物資が集められました。勢至堂峠が会津藩と白河藩の藩境になった為、麓にある三代宿には会津藩の口留番所や本陣、問屋などが設けられ繁栄しました。勢至堂峠は天文6年(1537)芦名盛氏によって開削された峠路で天正18年(1590)の奥州仕置きの際には豊臣秀吉が伊達政宗に命じで3間幅で整備させ「太閤道」の異名があります。長沼宿は白河街道の宿場町と同時に天和2年(1682)に本多政利が長沼藩1万石を立藩し陣屋が設けられた陣屋町です。元和6年(1693)に長沼藩は廃藩になりましたが、松平頼隆(水戸藩主徳川頼房の5男)が常陸国と岩瀬郡合計2万石で府中藩を立藩し岩瀬郡に1万6千石あった為、長沼にも陣屋を設けています。

白河街道のルート
会津城下−金堀宿−赤井宿−原宿−赤津宿−福良宿−三代宿−勢至堂宿−江花宿−長沼宿−牧之内宿−上小屋宿−飯土用宿−白河城下

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白河街道の見所
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