飛騨街道(岐阜県:太田宿〜古川宿)

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概要・歴史・観光・見所

【太田宿】−太田宿(岐阜県美濃加茂市)は中山道飛騨街道、関街道の分岐点がある交通の要衝として重要視され、尾張藩では太田宿に太田代官所を設けて周辺の行政軍事の拠点として藩の役人が派遣されました。又、木曽川舟運の拠点でもあり、多く物資が集められ、ここから各街道を通じて荷物が運ばれ、同時に「太田の渡し」は中山道三大難所として知られ「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と唄われました。現在も比較的に古い町並みが残され、脇本陣(国指定重要文化財)や本陣門(加茂市指定文化財)、旧小松屋、祐泉寺、御代桜醸造などが残されています。

【金山宿】−金山宿(岐阜県下呂市金山町)は美濃国と飛騨国の国境付近にあり飛騨川と馬瀬川の合流点だった事から、それらを境に益田郡・加茂郡・郡上郡・武儀郡の4つの郡が交じり合っていました。それぞれの支配は尾張藩・苗木藩・天領・旗本領(当初は郡上藩)と分割され複雑な体制でした。又、飛騨街道の他、和良街道(津保街道)、美濃への脇道が交差する交通の要衝で舟運の拠点である金山湊があった事から多くの物資が集められ経済的に大きく発展しました。現在も明治時代に建てられた古民家が軒を連ね往時の雰囲気がある町並みが見られます。

【下呂宿】−下呂宿(岐阜県下呂市:湯之島宿)は飛騨街道中山道中津川宿を結ぶ南北街道の分岐点があった交通の要衝であると共に、日本三名泉(下呂温泉・草津温泉・有馬温泉)に数えられる下呂温泉の温泉街として発展しました。宿場には本陣や脇本陣の他、伝馬、高札場(復元)、常夜塔(現存:天保11年:1840年建立)などがありました。下呂温泉は近代的宿泊施設が多い中、街道沿いは比較的雰囲気のある町並みが見られます。

【萩原宿】−萩原(岐阜県下呂市)は古くから戦略的な要所とされ戦国時代の天文年間(1532〜1555年)には三木直頼が桜洞城を築き、三木氏が滅んだ後は金森長近の家臣佐藤秀方が諏訪城を築きその城下町として発展しました。慶長20年(1615)に一国一城令で諏訪城は廃城になったものの、城郭は維持され萩原旅館として長く当地の行政、軍事、経済の中心として発展しました。現在でも良好な町並みが残され街並み景観保存地区に選定されています。

【高山宿】−高山宿(岐阜県高山市)は天正16年(1588)に金森長近が天神山城の跡地を利用して高山城(岐阜県指定史跡)を築城、その城下町として整備されました。元禄5年(1692)に金森頼時が出羽上山藩(山形県上山市)に移封になると高山藩は廃藩、元禄8年(1695)に高山城が廃城となり麓に幕府の天領陣屋(国指定史跡)が設けられ以後、代官陣屋町となりました。高山は飛騨国の行政、軍事、経済の中心として発展し、現在でも当時の古い町並みが色濃く残り「三町」地区と「下二之町大新町」地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

【古川宿】−古川宿(飛騨市古川町)は中世、飛騨国の中心だった地域で、飛騨国司や飛騨守護職が当地に館を構え、金森長近が天正16年(1588)に高山城を築くまで大きく繁栄しました。その後は高山城の支城である増島城が築かれその城下町として整備されました。慶長20年(1615)に一国一城令で増島城は廃城になったものの、城郭は維持され増島旅館として長く当地の行政、軍事、経済の中心として栄えました。現在も良好な町並みが残され白壁の土蔵が軒を連ねています。

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