姫街道(下仁田街道:貫前神社・富岡製糸場)

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概要・歴史・観光・見所
【姫街道(下仁田街道)】五街道の1つ中山道の脇街道の1つで、下仁田宿を通過する事から「下仁田街道」、又、姫街道(下仁田街道)中山道に比べて難所が少なく、関所の取調べが楽で女性に好まれた事から「姫街道」などと呼ばれました。中山道は西国大名の参勤交代で利用される事が多く、参勤交代の際は街道や宿場町の利用も制限された事からそれらを避ける上でも重要視されました。江戸時代末期には水戸藩(茨城県水戸市)の尊皇攘夷派により結成された天狗党も当初は混乱を避ける為に当街道を進軍し、丁度下仁田宿周辺で高崎藩(群馬県高崎市)との交戦(下仁田戦争)となり、歴史的舞台にもなっています。下仁田街道(姫街道)は中山道の本庄宿(埼玉県本庄市)から分岐して小坂坂峠を越え、本宿宿(群馬県下仁田町)を経て再び中山道の軽沢宿(長野県軽井沢町)に至る経路で下仁田宿からは砥沢宿(群馬県南牧村)を経て信州(長野県)に至る脇道も整備されました(街道沿いには蝉の渓谷といった名勝があります)。又、街道沿いには小幡藩、吉井藩、七日市藩の領内を通過し、その内小幡藩が参勤交代で利用しています(吉井藩と七日市藩は定府大名だった為、基本的には参勤交代が行われなかった)。

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【吉井宿】−吉井宿(群馬県高崎市)は下仁田街道(姫街道)の宿場町であると同時に江戸時代に吉井藩の藩庁が置かれた吉井陣屋の陣屋町として発展しました。藩主である松平家は定府大名だった為、陣屋には限定的な家臣を配したのみだった事から大規模な町割は行われませんでしたが、戦国時代に領主だった菅沼定利の菩提寺(当時は祈願寺)である玄太寺や、吉井藩の代官を歴任した島家の菩提寺である法林寺、当地域の名刹で中世の領主達の菩提寺である仁叟寺などの史跡が点在しています。

【富岡宿】−富岡宿(群馬県富岡市)は下仁田街道(姫街道)の宿場町で物資の集積場として発展しました。明治時代に入ると日本で始めての官営製糸工場である富岡製糸場が開設すると隆盛を極め、数多くの工女が働いた他、関係業者が集まり企業城下町の体を成しました。宿場内には七日市前田家縁の永心寺や、富岡製糸場で無くなった工女が埋葬された龍光寺などがあります。富岡製糸場は国指定重要文化財に指定され、名称「富岡製糸場と絹産業遺産群」としてユネスコの世界遺産に登録されています。

【七日市宿】−七日市宿(群馬県富岡市)は下仁田街道(姫街道)の宿場町であると同時に前田利家の5男前田利孝が初代藩主となった七日市藩の藩庁が置かれた七日市陣屋の陣屋町として発展した町で、七日市陣屋の中門や御殿玄関、書院の一部などの遺構が残され、旧武家町には旧家老屋敷の長屋門などがあり武家屋敷の雰囲気が一部残されています。街道沿いの町並みは経路が大きく改変され拡幅されている事もあり余り感じられません。

【一ノ宮宿】−一ノ宮宿(群馬県富岡市)は下仁田街道(姫街道)の宿場町であると同時に貫前神社の門前町で、地名も貫前神社が上野国(群馬県)の一之宮だった事に起因しています。貫前神社は安閑天皇元年(531)に創建されたと伝わる古社で、平安時代に編纂された延喜式神名帳には格式の高い名神大社として名を連ねていました。歴代領主や為政者から崇敬庇護され、現在も徳川将軍家より再建された壮麗な社殿群が残され多くが国指定重要文化財(本殿・拝殿・楼門)に指定されています。江戸時代中期以降に庶民にも行楽嗜好が高まると貫前神社にも数多くの参拝者が訪れるようになり、一ノ宮宿には遊女小屋なども立ち大いに賑わったそうです。

【下仁田宿】−下仁田宿(群馬県下仁田町)で、本宿をへて和美峠を越えて信州に到る経路と、砥沢宿を経て余地峠を越えて信州に到る経路に分岐する交通の要衝として発展しました。特に砥沢宿に近郊に砥沢鉱山があり、下仁田宿で集積した為に重要視されました。

【本宿】−本宿(群馬県下仁田町)は下仁田街道(姫街道)の宿場町であると同時に周辺の物資の集積場として発展した町で、周辺の中心的な存在として多種多様な町屋が軒を連ねました。現在も本宿には明治時代の大火後に建替えられた古民家が町並みを形成し、宿場町らしい雰囲気を保持しています。本宿周辺には西牧関所が設けられ、人や荷物の出入りが管理されていました。

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