沼田街道西通り(沼田城〜白井宿〜前橋城)

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概要・歴史・観光・見所
【沼田街道西通り】−沼田街道西通りは、文字通り沼田街道から見て利根川の西岸沿いに整備された街道です。さらに、西側には大動脈だった三国街道が通っていた事から北国街道脇往還とも呼ばれました。沼田街道西通りの経路は前橋城(群馬県前橋市)の城下から、総社城(群馬県前橋市)の旧城下町、白井宿(白井城の旧城下町・群馬県渋川市)、岩本宿、沼田城(群馬県沼田市)の城下町に至る街道で、白井宿からは三国街道の北牧宿とを結ぶ間道が分岐していました。特に、大名による参勤交代では利用されませんでしたが、物資の流通と庶民の交通経路としては重宝していたようです。

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【沼田城】−沼田の地は古くからの交通の要衝で、戦国時代には上杉領、真田領(武田領)、北条領、徳川領が接する軍事的にも大変重要だった事から沼田城を廻り度々攻防戦が繰り広げられました。特に、真田家と北条家は最後まで争い、小田原合戦の原因にもなっています。北条家が滅ぶと沼田城は正式に真田家の所有となり、城主だった真田信之は関ケ原の戦いで徳川軍に与した功により沼田藩を立藩し、信之が松代藩に移封後も一族が沼田を支配していました。延宝8年(1680)に、真田信直が改易になると、本多家、黒田家、土岐家が藩主を歴任し明治維新を迎えています。沼田城下からは、陸奥会津地方を結ぶ会津街道(会津側からは沼田街道)と、三国街道の六日町宿(新潟県南魚沼市)を結ぶ清水峠越往還が分岐し、多くの人や物資が往来しました。

【白井宿】−白井宿は中世、白井長井氏の城下町として発生した町で、江戸時代初期に白井藩が廃藩となり白井城が廃城になった後も、地理的な要因などから町割りが維持され、引き続き当地域の経済の中心である市場町として発展しました(白井宿を起点として沼田まで四里八丁、中之条まで五里、前橋まで四里八丁、渋川まで二里)。又、白井宿は三国街道の宿場町である北牧宿を結ぶ間道が分岐する交通の要衝でもあり、沼田街道西通りとの結束点には道しるべ(渋川市指定史跡)が建立されました。白井宿には水路や井戸などが整備され、古い町屋建築も数軒残されています。

【総社城】−総社城は江戸時代初期に、関ケ原の合戦で功を挙げた秋元長朝が当地に1万石が与えられ築城された城郭です。寛永10年(1633)に2代秋元泰朝が移封になると総社藩は廃藩となり、総社城も廃城となりましたが、沼田街道西通りの街道沿いの町割りは維持されたようで、それらしい町並みを見る事が出来ます。周囲には秋元家の菩提寺である光厳寺や元景寺など縁の史跡が点在しています。

【前橋城】−前橋城は中世に長尾氏の拠点の一つとして築城された城郭で、慶長6年(1601)に徳川家の家臣酒井重忠が川越藩1万石から3万3千石に加増され前橋城に入ると、本格的な城郭として整備拡張され、城下町も町割りされました。酒井家は徳川家の重臣として加増を重ね、3代酒井忠行の代には15万2千石となり有力譜代大名となりました。城下町も多くの家臣達が住まう大消費地となり、行政、経済、軍事の中心地として発展しました。明和4年(1767)の大洪水により前橋城は廃城に余儀なくされますが、文久3年(1863)に再築城され慶応3年(1867)に概ね完成しています。

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