甲州街道(長野県:蔦木宿〜下諏訪宿)

  ホーム長野県の街道>甲州街道

概要・歴史・観光・見所

【蔦木宿】−蔦木宿(長野県諏訪郡富士見町)は甲州街道の宿間町で甲州国(山梨県)と信州国(長野県)の境近くにあります。南口と北口が枡形で中央付近には本陣(大阪屋源右衛門家:表門のみが現存)や鎮守である十五社大明神と武田家縁の三光寺があり、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒で構成されていました。三光寺は応永2年(1395)又は応永24年(1417)に武田信重が出家し父親である武田信満の菩提を弔う為に開いたのが始まりとされます。当初は真言宗の寺院で真如山満願寺と称していましたが天正2年(1574)、門鶴和尚が曹洞宗に改宗、その後、現在の寺号に改称し現在地に境内を移しています。

【金沢宿】−金沢宿(長野県茅野市)は当初北西の権現原平にあり青柳宿と呼ばれていましたが、付近を流れていた宮川が度々洪水となりその都度宿場が大きな被害を受けた為、慶安3年(1650)の火災で多くの建物が焼失した事を受け慶安4年(1651)に現在地に宿場を移し金沢宿と名称を変更しました。宿場は大きく上町、中町、下町の3町に分けられそれぞれに枡形があり江戸時代後期には本陣1軒、旅籠17軒の規模でした。本陣は青柳宿時代から小松家が担っていましたが4代小松三郎左衛門が隣村との山論(山林・原野など山に関する争論)の為宿場の役目を疎かにした為、延宝6年(1678)に処刑となり以後白川家が本陣を担いました。

【上諏訪宿】−上諏訪宿(長野県諏訪市)は高島藩の藩庁、藩主居館が置かれた高島城の城下町として発展した町です。高島城は日本三大湖城に数えられる名城で当初は諏訪湖に張り出すように築城された事から城下町は高島城に向かう大手筋の武家町と甲州街道沿いの商家町がT字型に町割されました。又、諏訪大社上社本宮へと続く参道への分岐点でもあり江戸時代中期以降は多くの参拝者が上諏訪宿を利用しました。宿場は大きく上町、中町、本町の3町に分けられ江戸時代後期には本陣1棟、旅籠14棟の規模となっています。

【下諏訪宿】下諏訪宿(長野県諏訪郡下諏訪町)は中山道甲州街道の分岐点で、諏訪大社下社秋宮の門前町、湯治場として発展しました。諏訪大社は信濃国一之宮とされる格式の高い古社で、付近には諏訪地方唯一の前方後円墳である青塚古墳(長野県指定史跡)が築かれ古代から開けていたと思われます。下諏訪宿はさらに、難所である和田峠を控えていた事から多くの旅人や商人などが利用し本陣1軒(岩波家:庭園は中山道随一との評価)、脇本陣2軒(桔梗屋・まるや)、旅籠40軒と周辺の宿場町と比べると規模の大きな宿場町でした。

スポンサーサイト
長野県の街道
北国街道(善光寺街道)中山道(木曽路)甲州街道中山道(信州路)三州街道谷街道北国西街道(善光寺西街道)佐久甲州街道(龍岡城五稜郭・新海三社神社・小諸城)千国街道

※ 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、文章や画像、写真のコピーは御遠慮ください。