石見銀山街道

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石見銀山街道
石見銀山街道概要: 石見銀山(島根県大田市)は鎌倉時代末期に発見されたのが始まりとされますが、戦国時代に入り本格的な発掘が始まり、周辺の大名が所有権を巡り何度も攻防戦が繰り広げられました。当初は石見銀山から日本海に運びそこから海上輸送された為、街道も日本海側に集中し沖泊や鞆ケ浦が飛躍的に発展しました。沖泊までの道は「湯野津沖泊道」と呼ばれ、尼子氏、毛利氏時代には街道の両脇に矢滝城、矢筈城跡を築き、沖泊の海上防衛の為に櫛山城、鵜丸城が築かれました。鞆ケ浦は、石見銀山発見当初に最もと利用された中世の港で「鞆ケ浦道」と呼ばれました。大永6年(1526)に本格的に開発した神谷寿貞は博多出身の豪商だった為、鞆ケ浦から博多や九州行きの商船が数多く出入りしました。江戸時代に入ると日本海側と共に瀬戸内海や山陽道の輸送路も重要視され新たに交通の拠点である尾道までの街道が開削されました。特に石見銀山は幕府の直轄地となった事で奉行や代官が赴任し、当時の経済の中心地だった大坂への物資の搬出入の為、山陽道回りの街道が重要視されました。尾道までは特に「尾道道」と呼ばれ街道沿いには九日市宿、三次宿、甲山宿などの宿場町が設けられ約130キロの工程を3泊4日にかけて鉱物や日常品が運ばれました。別ルートとしては宇賀から分岐して上下、府中、神辺、笠岡へと続く「笠岡道」があり、特に代官が新たに赴任した際は同じく天領の代官所があった上下を通る為に「笠岡道」を利用しました。現在でも当時の町並みを色濃く残しており石見銀山の生活の中心だった大森地区と温泉津温泉が重要伝統的建造物群保存地区に選定、石見銀山関連の遺跡群が世界遺産に登録されています。

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石見銀山街道のルート
沖泊−温泉津温泉−石見銀山−大森宿−小原宿−赤名宿−布野宿−三次城下−
吉舎宿−甲山宿−市宿−尾道浦


沖泊
白石見銀山街道 東海道 山陰道
温泉津温泉
石見銀山街道
石見銀山
石見銀山街道
大森宿
石見銀山街道
小原宿
石見銀山街道
赤名宿
石見銀山街道
布野宿
石見銀山街道
三次城下
石見銀山街道
吉舎宿
石見銀山街道
甲山宿
石見銀山街道
市宿
石見銀山街道
尾道浦
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