北陸道: 弥彦神社・門前町

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弥彦神社・門前町
弥彦神社・門前町
[ 場所: 新潟県西蒲原郡弥彦村 ]・[ 関係リンク: 弥彦村:歴史・観光・見所 ]
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概要・歴史・観光・見所
弥彦神社・門前町概要: 弥彦神社(新潟県弥彦村・越後国一宮)の創建時期は判りませんが、和銅4年(711)に社殿が建てられると朝廷にも知られる存在となり、随時格式を上げ、平安時代に成立した延喜式神名帳では越後国唯一の名神大社として記載されています。飛鳥時代には越国の国境が弥彦神社が鎮座していた弥彦山だったと推定され、弥彦山自体が神山として神聖視され、古代の官道である北陸道の最終駅である「伊神駅」は現在の弥彦神社の門前町付近だったという説もあり、政治的にも重要な土地柄だった事が窺えます。大化3年(647)に、現在の新潟県新潟市東区付近(明確な場所は不詳)に古代の城柵である渟足柵が築かれると、越後国府(新潟県上越市付近)から渟足柵まで北陸道が延長されたと思われます。

中世に入ると、越後国一宮として認識され、越後国の守護や国人領主などから数多く願文を奉納し、特に永禄7年(1564)に上杉輝虎(謙信)が奉納した願文(新潟県指定文化財)が有名で、そこには関東出兵は関東管領の役職を全うする為で、それを阻害した武田信玄とはやむを得ず戦いに及び多くの犠牲者を出した事に悔やみ、念願成就(武田信玄と北条氏康の掃討)した際には今まで以上に神仏に帰依し建物の修復や造営、領地の寄進を行う事が記載され、弥彦神社が信仰の中心だった事が窺えます。

江戸時代初期は高田藩(新潟県上越市・本城:高田城)領に属し、初代藩主として就任した松平忠輝も篤く帰依し、徳川家康から賜った砧青磁袴腰香炉(新潟県指定文化財)を弥彦神社に奉納しています。砧青磁袴腰香炉は元々中国南宋時代に製作されたものですが、寛元4年(1246)に蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が南宋から渡来した際に当国に持ち込まれ、その後、鎌倉幕府将軍に献上され、徳川家康、松平忠輝に渡ったと云われています。その後は長岡藩(新潟県長岡市・本城:長岡城)牧野氏の庇護となり、元禄7年(1694)には3代藩主牧野忠辰が牧野家一族4柱(その内の1柱である牧野康成は初代藩主牧野忠成の異母弟で、人望が厚かった事から担ぎ出す派閥が形成され、御家騒動に発展する前に粛清されました。幽閉先の椿沢寺で死去すると、牧野家に不幸が立て続けに起こった為、祟りを恐れて五所宮、現在の十柱神社に祀られる事になったと伝えられています。)を祭る十柱神社の社殿を造営し国指定重要文化財に指定されています(現在は牧野家関係の4柱は廃祀となっています)。

江戸時代中期以降になると、一般庶民にも信仰が広がり、さらに、信仰を理由だった場合には関所を通る事が出来た為、弥彦神社には数多くの参拝者が訪れるようになり門前町が大きく繁栄しました。又、北陸道は参勤交代で利用されなかったものの物流や人の交流が盛んになった為、宿場町としても重要性が高まりました。数多くの文人墨客も利用し、江戸時代初期には松尾芭蕉が奥の細道の際、門前町で宿泊し翌日、弥彦神社に参拝した事が随行者、曽良が筆した日記に記載されています。

現在は弥彦神社の門前町である共に、昭和35年(1960)に掘削された源泉を元に温泉街としの要素が加わり昭和38年(1962)には厚生省による国民保養温泉地に指定されています。門前町には弥彦神社神社の別当寺院だった神宮寺の末寺宝光院(越後弘法大師二十一カ所第13番札所、境内背後に「婆々杉」)や、新潟県指定天然記念物に指定されている「蛸ケヤキ」、親鸞聖人縁の「親鸞聖人清水」などの史跡が点在しています。

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