北陸道(新潟県)概要: 北陸道(北陸街道)は古くから令制国の国府を結ぶ官道として整備され、当初は越後国府(直江津)まででしたが蝦夷侵攻の拠点となった渟足柵(新潟市)が築かれるとそこが街道の北限となりました。江戸時代に入ると直江津宿までは加賀前田藩の参勤交代で利用され各宿場町が発展し、それ以北には椎谷藩(1万石)や三根山藩(1.1万石)の城下を通りましたが両藩は基本的に定府大名だった為、参勤交代には利用されず旅行者や商人などの物流や幕府の巡視などに使われました。
新潟宿は信濃川の河口にあたり、江戸時代は信濃川舟運の拠点、北前船の寄港地、長岡城の外港として大きく発展し、幕末に締結された日米修好通商条約により開港された五港(横浜港、神戸港、函館港、長崎港、新潟港)に選定されるなど当時では数少ない国際港として発展しました。弥彦宿は越後国一ノ宮とされる弥彦神社の門前町として発展、寺泊宿は佐渡島の渡航地、三国街道の分岐点となりました。出雲崎宿も佐渡島の渡航地で北前船の寄港地、港には佐渡金山から運ばれた金が搬入され幕府の代官所による天領として支配されました。椎谷は椎谷藩の陣屋が構えられた小城下町(陣屋町)で椎谷観音堂などの見所があり柏崎宿は魚沼地方に繋がる魚沼街道(鯖石街道)や小千谷街道の分岐点で内陸部で生産された越後縮布を集積し縮布行商で繁栄しました。直江津は古代の越後国府が置かれた地で、その後も守護所や上杉家の居館である御舘や上杉館が設けられ、室町時代末期には三津七湊に数えられました。江戸時代に入ると高田城の外港、北前船の寄港地として繁栄しました。熊生宿に鎮座する能生白山神社は当地域の代表する白山神社で神仏習合の名残が色濃く仏像や一切経なども残されています。糸魚川は糸魚川藩の陣屋の小城下町として繁栄し街道沿いには加賀藩前田家の本陣(加賀の井酒造)が設けられ参勤交代の際は宿所として利用されました。糸魚川陣屋の近くに鎮座する天津神社は延喜式神名帳に記されている大神社の論社で格式が高い事から弥彦神社、居多神社と共に越後国一ノ宮という説があります。
※ 北陸道には様々な定義(直江津まで北国街道としたり、村上城下まで北陸道とする場合もあるようです。)があるようですがこのサイトでは中山道の鳥居本宿(滋賀県彦根市)から新潟宿(新潟県新潟市)までを北陸道として、新潟宿以北を羽州浜街道としました。
北陸道(新潟県)のルート
新潟宿−赤塚宿−稲島宿−福井宿−岩室宿−弥彦宿−寺泊宿−出雲崎宿−椎谷城下−宮川宿−柏崎宿−鯨波宿−相川宿−柿崎宿−潟町宿−黒井宿−直江津宿−長浜宿−名立宿−熊生宿−梶屋敷宿−糸魚川城下−青海宿
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北陸道(新潟県)の見所
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