村上城の城下町

   街道の空(ホーム)>新潟県の街道出羽街道羽州浜街道>村上城
会津五街道
 ・ 白河街道
 ・ 米沢街道
 ・ 越後街道
 ・ 二本松街道
 ・ 会津西街道
 ・  
出羽街道
 ・ 村上城の城下町
 ・ 猿沢宿
 ・ 大毎宿
 ・ 北中宿
 ・ 北黒川宿
 ・ 中継宿
 ・ 小俣宿
 ・ 小名部宿
 ・ 小国宿
 ・ 木野俣宿
 ・ 温海川宿
 ・ 菅野代宿
 ・ 鶴ヶ岡城の城下町
 ・ 
羽州浜街道
 ・ 鼠ヶ関宿
 ・ 瀬波港
 ・ 村上城
 ・ 岩船港
 ・ 新潟港
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・  
 ・  
 ・  
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・  
 ・  
 ・  
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・  
 ・ 
 ・ 
概要・歴史・観光・見所
村上城の歴史: 村上城村上城(国指定史跡)が何時頃築かれたのかは定かではありませんが、戦国時代に入って当時の領主本庄氏によって館(本庄城)が構えられたのが始まりと推定されています。本庄氏は武蔵国を領した秩父氏の一族が鎌倉時代に越後国小泉庄の地頭として派遣され、その後地名に因み本庄氏を名乗ったとされています。本庄繁長の代で最盛期を向かえ、当地方では最大勢力の国人領主にまで発展し大きな影響力を行使出来るまで成長しています。その後、台頭してきた春日山城(新潟県上越市)の城主長尾景虎(後の上杉謙信)に従うようになり重臣として迎え入れられています。謙信の死後に発生した御舘の乱後に上杉景勝に使え、その後は新発田城(新潟県新発田市)の城主新発田重家の討伐や、出羽街道を北上し庄内侵攻で功を挙げています。特に庄内進出では息子である千勝丸を尾浦城(山形県鶴岡市)の城主大宝寺氏(武藤氏)の養子として送り込み、最上義光の侵攻を抑え、上杉家の勢力下に組み込ませています。慶長3年(1598)、村上城上杉景勝が春日山城から鶴ヶ城(福島県会津若松市)120万石で移封になると、春日山城には堀秀治が30万石で入封し本庄城には堀家の与力大名である村上頼勝が9万石で入封しています。これにより本庄城から村上城に改称され地名も本庄から村上に改められ本庄色が一掃されます。頼勝は慶長5年(1600)の関が原の戦いでも東軍に与した事で引き続き村上城の城主が認められ村上藩を立藩、村上城には藩庁と藩主居館が設けられ城の改修、拡張が随時行われています。元和4年(1618)に村上忠勝が御家騒動で改易になった為、村上城が一応の完成を見たのはその後入封した堀直寄の代の元和5年(1619)とされています。寛永19年(1642)に堀直定が幼少で亡くなった為に堀家は断絶、一時天領となり、正保元年(1644)に本多忠義が10万石で入封、村上城慶安2年(1649)に白河城12万石で移封になると松平直矩が15万石で入封します。直矩の代で村上城と城下町は大改修され、それが現在見られる村上城の原型となっています。寛文7年(1667)の落雷が原因で火災となり天守閣を含む多くの建物が焼失、その後再建されましたが、無用の長物となっていた天守閣は財政難などあり再建されませんでした。その後も藩主の入れ替わりが激しく享保5年(1720)に内藤弌信が越後国岩船・蒲原・三島3郡5万石で村上城に入封するとようやく定まり以後内藤家が明治維新まで城主を務めています。戊辰戦争の際は家臣の中で新政府側と旧幕府側とで意見が対立し、旧幕府側に与した家臣達は村上城に火を放ち庄内藩に逃亡、再建途中の明治4年(1871)に廃藩置県により廃城となり明治8年(1875)に残された施設も完全に破却されています。

村上城の縄張り: 村上城村上城は標高135mの臥牛山に築かれた戦乱が無くなった近世の城郭としては珍しい山城です。基本的に藩庁と藩主居館は麓に設けられた為、山頂の城郭部はもっぱら中世の詰め城的な機能しか無く、本丸や二之丸、三之丸の面積は比較的に小さく計画されています。本丸には3層天守の他、時代によっては多少異なりますが3基から4基の2層櫓が配され、それを繋げるように多聞櫓が廻り、本丸帯郭との出入り口である枡形の冠木門がありました。本丸帯郭には乾櫓、巽櫓、出櫓、平櫓が配され、特に出櫓が配され部分は2之丸に大きく張り出す事で敵兵が侵入してきた際は防御上大きな役割を持ったと思われます。二之丸と本丸帯郭の間には黒門、大手筋からは御鐘門、搦手筋からは東門が配され、櫓などの施設は設けられなかったようです。三之丸には2層櫓である玉櫓と靱櫓、大手筋には四ツ門が配されていました。麓の藩庁、居館部分の正面には三層櫓、月見櫓(2層)、中櫓(2層)、角櫓(2層)があり3方を堀と土塁で囲い一文字門、框門、刎橋門で出入りを管理していました。麓の居館と山頂の城郭部とは七曲りと呼ばれる険しい路で繋げられ日常は殆ど利用されていなかったようです。村上藩が10万石から15万石だった頃の築城の為、内藤家が5万石時代には不相応の大規模城郭で管理に苦慮していたと思われます。

村上城の城下町: 若林住宅(武家屋敷)村上城の外堀の内側は略武家地で城に近い方が大身の家臣が配され、外側に行くに従って小録の家臣が配されていました。外堀を囲うように出羽街道羽州浜街道米沢街道(越後街道)が引き込まれ、街道沿いに商人町が配され、特に村上城の西側に厚く商人町が形成されています。内藤家の菩提寺である光徳寺は村上城の西側の麓の郭内に配されていますが、浄念寺や安善寺といった他の多くの寺院は北西に配され寺町を形成し、南西の羽州街道沿いにも村上城の鎮守社で村上藩領総鎮守である西奈彌羽黒神社など多くの社寺が配されています。現在も城下町には旧若林家住宅(国指定重要文化財)や旧成田家住宅(村上市指定文化財)、旧嵩岡家住宅(村上市指定文化財)、旧藤井家住宅(村上市指定文化財)、旧岩間家住宅(村上市指定文化財)が残り、街道沿いには町屋が点在しています。

街道の空(ホーム)

 
 ※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「福島県WEB観光案内所」は「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」、「郷土資料辞典:福島県」、「日本の城下町」、を参考にさせていただいています。