大塩宿(米沢街道)

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大塩宿・歴史・観光・見所
大塩宿(北塩原村)概要: 大塩宿は米沢街道の宿場町で難所の1つである大塩峠を控え、猪苗代に抜ける街道との分岐点でもあった為重要視されました(温泉神社の参道前には文化8年(1811)に「右ハいなわしろ道 左ハよねざわ道」と刻まれた道標が建立されています)。戦国時代には芦名氏が米沢城の城主伊達家の会津侵攻を食い止めるため「鹿垣」を築き天正12年(1584)には大塩宿を見下ろせる山頂に「柏木城」が築かれました。柏木城は東西1.1キロ、南北600m、面積50ヘクタール、城の規模はもとより、東北地方の戦国時代の山城には珍しい石垣が多用され重要視されていたのが分かります。江戸時代に入ると米沢街道の宿場町として整備され大塩宿には検断屋敷が設けられ案内板にようと「 中島氏の流れを組む穴沢氏が、町として位置づけられた大塩宿を統括していた屋敷を「検断屋敷」と呼んでいました。戊辰戦争の1868年8月23日、新撰組の土方歳三や斎藤一、旧幕府の大鳥圭介、桑名藩主ら約千人が宿泊し、本営を置こうとしました。土方歳三は、大鳥圭介に「斎藤一らの新撰組をよろしく頼む」と依頼しますが、大鳥圭介も9月9日、大塩で食事をし、秋元原から福島へ出ています。」とあります。穴沢氏は芦名氏の家臣として伊達家の侵攻を食い止める為に檜原に配された武将ですが主流は伊達家によって滅ぼされ、一族の一部が大塩宿に土着帰農し検断職を担ったと思われます。検断屋敷といっても実質宿場町の本陣と同様な機能があったと思われ、享和2年(1802)7月3日(西暦7月31日)には伊能忠敬も全国測量中に穴沢家で宿泊しています。寛永5年(1852)3月27日(旧暦)には長州藩を脱藩し東北遊学を行った吉田松陰も米沢城から檜原宿を経て大塩宿で宿泊しています。地名である大塩の由来は古くから塩水が湧き出し、それを塩炊きし良質の塩を精製し会津城下に運んだいた事に起因し、温泉水とし湯治にも利用されました。鎮守である温泉神社の創建は不詳、当初は峠道を控えていた事から山を司る大巳貴命、大山祇命が勧請され山神社と称していましたが江戸時代に入ると温泉場としても発展した為、温泉の守護神でもある湯前権現(薬師如来)が勧請されましました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され現在の社号である温泉神社に改称しています。
大塩宿
大塩宿
[ 付近地図: 福島県喜多方市 ]・[ 関係リンク: 喜多方市 ]
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