米沢城の城下町

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米沢城・歴史・観光・見所
米沢城・歴史: 米沢城が何時頃に築かれたのは明確ではありませんが、暦仁元年(1238)大江時広米沢城(鎌倉幕府御家人大江広元の次男)が当地の地頭として就任した後に居館として設けられたのが始まりとされます。後裔は地名から長井氏を称し、米沢城を居城として長く当地を支配しました。天授6年(1380)、伊達宗遠の侵攻により長井氏が滅亡すると米沢城は伊達家の管理下に入り永禄年間(1558〜1570)に伊達晴宗が居城を西山桑折城(福島県桑折町)から米沢城に移し本格的な城郭として拡張整備されました。天正18年(1590)伊達政宗は会津に侵攻し宿敵だった芦名氏を破ると一時会津黒川城(福島県会津若松市)に居城を移しますが、米沢城:堀政宗は小田原の陣に遅参と、惣無事令により岩出山城(宮城県大崎市)に移封となり、米沢城には会津黒川城主となった蒲生氏郷の重臣蒲生郷安が3万5千石で城主として配されました。慶長3年(1598)、蒲生秀行が御家騒動により会津黒川城92万石から宇都宮城(栃木県宇都宮市)12万石に移封になると変わって春日山城から上杉景勝が会津黒川城120万石で入封し、米沢城には上杉家執政の直江兼続が30万石(実質は6万石程度とも)配されました。慶長5年(1600)の関が原の戦いで上杉家は西軍に与した為、敗戦後米沢30万石で移封となり米沢城には上杉家の居城として整備拡張されました。米沢城:水堀当時の米沢城はまだまだ小規模だったとされ直江兼続を中心に縄張りと城下町が計画され堀立川から水を引き込み新たに三之丸を拡張し、本丸や二之丸も改修されました。慶長14年(1609)に米沢城は一応完成し、以後、歴代上杉家が城主を歴任し、寛文4年(1664)には3代藩主上杉綱勝が跡継ぎ無く死去した為、改易の危機にさらされ15万石に減じられましたが米沢城は維持され明治維新を迎えています。戊辰戦争の際は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦いましたが、米沢城が戦場になる前に降伏し開城しています。明治2年(1869)に米沢藩14代藩主上杉茂憲が版籍奉還した事で米沢藩は廃藩となり米沢城も廃城、明治6年(1873)には残された建物も破却されました。

米沢城・縄張り: 米沢城は輪郭式平城で、本丸を中心に本丸より一回り規模が大きい2之丸が囲い、上杉茂憲伯爵邸さらに三之丸が内郭部を囲い概ね3重の水掘と土塁で郭内を構成し堀立川(人口掘削)と最上川(松川)を天然の外堀として見立てていました。本丸には藩主居館の他、東隅と北西隅に御三階櫓を建て天守閣の代わりとし、二之丸との間には大手門、本丸北門、菱門の3つの門があり水堀と土塁で囲われていました。二之丸には2層櫓が4基や、作事屋、勘定屋、用部屋といった米沢藩の施設や上杉家の菩提寺である法音寺、米沢新田藩の陣屋などが設けられました。三之丸には大御門、南御門、西門、北門の4つの門があり水堀と土塁で囲われ概ね上杉家の家臣の武家屋敷が建てられています。三之丸の櫓の数は不詳ですが米沢城全体は年代で前後するものの概ね10基の櫓、17門の城門があったとされます。基本的には土塁中心の城で腰巻や主要部の一部のみに石垣が利用されています。現在は公園として整備され本丸には上杉神社、二之丸には上杉茂憲伯爵邸、松岬神社(祭神:上杉鷹山)

米沢城・城下町: 外堀内部の郭内は略武家屋敷が配され、城下に引き込んだ街道沿いと城上杉家廟所の東側に商人町が形成されました。会津黒川城とを結ぶ会津街道(会津側からは米沢街道と呼ばれた)の城下の出入り口には照陽寺(上杉憲政菩提寺)、常安寺(上杉謙信開基)、越後街道(越後側からは米沢街道と呼ばれた)の城下の出入りには上田長尾家の菩提寺龍言寺が、参勤交代で利用する米沢街道には福島側の東方と上山川側の北方には寺町が形成され多くの寺院が集められました。特に大身の墓碑は直江兼続が考案した万年塔と呼ばれる独特の形式が採用され、有事の際は取り外しの出来る屋根を外し、防壁、洪水の際は砂や土を積め簡易な堤防になるように計画されました。米沢城の本丸から見て北東の鬼門にあたる三之丸の土塁の上には、鬼門鎮護として五穀稲荷神社が勧請され米沢城の裏鬼門にあたる南西方向には直江家の一族が住職を務め直江兼続が庇護した鳳台寺、北西には聖地である上杉家廟所が配されています(米沢城からはかなり離れていますが南陽市宮内に境内を構える熊野大社も米沢城の鬼門鎮守として篤く庇護されています)。上杉家廟所は米沢城から見ると北西にあたり、本来は城内に改装された上杉謙信の霊柩が有事の際に避難させる場所として想定されていましたが、元和9年(1623)に上杉景勝が死去し葬られると歴代藩主もこれに倣っています。又、城下に収容出来なかった下級武士は城下に近い要衝に幾つかに分かれ半士半農の暮らしを行い現在でもその名残の町並みが見られます(上杉家は120万石から30万石、15万石に石高が減らされても基本的に家臣を強制解雇しなかったとされます)。傾奇者として知られた上杉家の客将前田慶次も米沢城の郊外にある堂森に屋敷を構えていたそうで、近くにある堂森善光寺の境内には前田慶次の供養塔が建立されています。

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