三戸宿概要: この地は中世、三戸南部氏の本拠である三戸城(現在の県立城山公園)があった場所で領内の中心地として発展しました。三戸南部氏は南部家の一族の1つでしたが天正18年(1590)の小田原の役で豊臣秀吉に謁見し一族の中で唯一所領が認められた事から他の一族は三戸南部氏に従わざるを得ない状況となりました。それに反発した九戸南部氏は天正19年(1591)、挙兵しましたが豊臣軍の大軍の前に降伏しこれを持って三戸南部氏の総領制が確立しています。その後、九戸城(岩手県二戸市・国指定史跡)に居城を移したものの三戸城も引き続き重要視され城代が派遣され当地域の中心地となっていました。慶長5年(1600)の関が原の戦いで南部氏は東軍に与した為、所領が認められ盛岡藩が成立し、支配地域に対して極端に北方に位置していた事から慶長20年(1615)に盛岡城(岩手県盛岡市)を整備して藩庁を移しました。江戸時代に奥州街道が開削されると宿場町として整備され、又、南部藩と関係が深い八戸藩へ続く三戸街道の分岐点でもあり、交通の要衝、物資の集積場としても重要視された事で三戸城の跡地麓には代官所や野馬役所などが設けられました(城は一国一城令により廃城となり施設(建物)は破却されましたが、城郭自体は維持された)。宿場内には南部藩の祈願所として崇敬された三戸大神宮や南部家の菩提寺の一つ法泉寺(山門は三戸城搦手門の移築城門:三戸町指定文化財、南部経直の墓碑)、北方鎮護の毘沙門天堂、三戸城の表門が移築された龍川寺などがあり町並みにも古い町屋などが点在しています。宿駅は八日町と二日町に設置され1か月交代で継立を務めたそうです。
三戸城: 三戸城は留ヶ崎城や糠部城などと呼ばれる中世の山城で、形式的には連郭式山城と呼ばれています。鎌倉時代以降、北奥州を支配した南部氏は聖寿寺館(本三戸城)を本拠としていましたが、天文8年(1539)家臣の放火により焼失した事を受け、より強固な城郭を求められ三戸城の築城と本拠の移転が求められました。城は比高約90mの独立丘陵に築かれ、南西方向に尾根が伸びていた為、それに沿って数多くの郭が設けられ、随所に城門を設けていました。麓の城下町からは綱御門、鳩御門、ケヤキ御門、大御門を経て本丸に至る大手筋で、大手筋には有力家臣や南部家一族の屋敷が軒を連ね、本丸には三戸城の象徴となる三重櫓が設けられました。南東方向は馬淵川と熊原川により侵食された崖地となっている為、天然の要害を成し一大要塞となっていました。しかし、豊臣秀吉の天下統一が成ると戦乱が極端に減った為、より行政的に有利な平山城や平城が求められ、九戸城、盛岡城と本拠を移しました。
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