奥州街道: 七戸城の城下町

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七戸城の城下町
七戸宿
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七戸宿 七戸宿 七戸宿 七戸宿
七戸宿 七戸宿 七戸宿 七戸宿
概要・歴史・観光・見所
七戸城下概要: この地は中世から南部氏の拠点だった1つで、建武2年(1335)に南部政長が七戸領に配されると七戸城を築くと、後裔は七戸氏を称し城下町として発展しました。七戸氏は天正19年(1981)の九戸の乱(奥州仕置で南部家本家にと対立した九戸政実が九戸城に立て籠もり、豊臣仕置軍と交戦した。仕置軍は苦戦し力攻めでは九戸城を落す事が出来ず、講和を条件に政実を城外に誘き出し忙殺、城は落城し城兵は悉く惨殺された。)で九戸政実に与し事実上絶家しています(その後南部一族が名跡を継いでします)。乱が終結すると七戸領は三戸南部家(南部家総領家)に組み込まれ七戸城(国指定史跡)の城下町として整備されましたが、慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると七戸城は廃城となります。ただし、当地は交通の要衝で、街道の先には犬猿の中である津軽家の居城弘前城に繋がっていた為、軍事的拠点としての重要性は変わらず、さらに七戸領の中心地としての重要性も維持され城跡に代官所を設けて七戸通(南部藩では江戸時代初期、領内の行政区域を「通」と称し48区に別けて代官を配置した。最終的に25区に統廃合された。)として周辺の行政の中心として発展しました。城下には奥州街道が通り、多くの物資も集められ経済的にも豊かになりました。南部家の別家だった南部信隣は盛岡藩11代藩主南部利敬から6千石の加増を受け1万1千石の大名となり盛岡新田藩を立藩します。ただし、当時は定府大名だった為、本領には陣屋など藩主の居館がなく文字通り書類上だけの藩で幕末の混乱に乗じて改めて七戸藩を立藩し陣屋や藩校などが整備されました。現在の七戸町は古い町並みが失われつつありますが古い酒蔵などが点在し往時の繁栄を伺え知る事ができます。又、城下には七戸南部家の菩提寺である瑞龍寺(瑞龍寺の境内は七戸城から見ると東南方向に位置する事から裏鬼門鎮護とも考えられます。)や七戸城の城門が移築されている青岩寺(本堂:青森県県宝)、七戸城の鬼門鎮守である天王神社などが点在しています。

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