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浅貝宿概要: 浅貝宿(新潟県湯沢町)は三国街道の越後国(新潟県)に入っての最初の宿場町です(越後側から見ると最後の宿場町)。三国峠を背後に控えていた事で上杉謙信は浅貝宿周辺を軍事的拠点の一つとして捉え砦や関所を設け10回を越える関東攻めを行っています。江戸時代に入ると改めて三国街道が整備され慶長15年(1610)頃に浅貝宿が宿場町として整備されました。本陣である綿貫家は本陣役の他、庄屋や問屋場などを歴任した宿場内の実力者で、往時は名字帯刀が許され、建物内部には式台付の玄関や上段の間を備える格式の高いものが求められ参勤交代で三国街道を利用した長岡藩(本城:長岡城)や村松藩、与板藩(本城:与板陣屋)などの諸大名や佐渡奉行、新潟奉行などの上役が定宿としていました。浅貝宿は慶応4年(1868)の戊辰戦争によって、多くの家屋が焼失し、明治時代に入って街道制度が廃止され衰退しますが苗場スキー場を中心とする行楽地として再び活気を呈しています。"御宿本陣"はかつて本陣を勤めた綿貫家が経営する旅館宿で玄関は当時の建物を移築したものとされます(内部には本陣歴史資料館も併設されています)。宿場内には浅貝寄居城の他、いぼ地蔵(地蔵に水をかけ祈願すると「いぼ」が治るとされます)、十二神社(薬師如来を守護する十二神将が祀られ、仏教の守護神、山の守護神として御利益があるとされます)、薬師堂(薬師如来が祀られ、眼病平癒に御利益があるとされます)、妙見神社(妙見神が祀られ健康長寿に御利益があるとされます。浅貝宿では病に罹った人の身長と同じ長さの旗を奉納し、さらに100本の竹串か小旗を用意して御百度参りする毎にそれらを捧げると念願成就すると信仰されています。)などがあり、宿場外れの街道沿いには石仏や供養塔、庚申塔などが建立されています。
浅貝寄居城: 浅貝寄居城は元亀2年(1571)、上杉謙信の命により栗林二郎左衛門、大石惣助が築城した平城で、関東進出の拠点の1つとして重要視されました。常時数十人の家臣が配備され、敵国から侵入に備え、関東進出の際は謙信の宿営地にもなったとされます。本丸を最奥地に配しその前面に2の郭、3の郭を構えた3段構成で、2の郭と3の郭の間には虎口となっていました。本丸周辺の土塁が残され昭和46年(1971)に湯沢町指定史跡に指定されています。
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浅貝宿
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浅貝宿(新潟県湯沢町):町並み
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