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小千谷概要: 小千谷(新潟県小千谷市)の地は三国街道の街道沿いとは異なり、信濃側の対岸に位置していました。江戸時代には天領の柏崎と同じく天領だった小千谷を結ぶ魚沼街道の起点となった為、魚沼街道から運ばれた物資や旅人は小千谷から信濃川を越えて三国街道に入りました。天和元年(1681)には幕府支配の拠点となった小千谷陣屋が設けられ、享保9年(1724)には魚沼郡(小千谷組・塩沢組・六日町組・浦佐組・小出島組)の天領を会津藩が管理した体制である会津藩預所となっています。小千谷陣屋周辺には社寺が集められた為、名刹として知られた慈眼寺や極楽寺、照専寺、魚沼神社などが密集し、旧街道沿いには町屋建築が建ち並んでいました。特に小地谷は小千谷縮の一大産業地、集積地となった事から、ここから魚沼街道を下り柏崎から全国へと運ばれていきました。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際には小千谷にある慈眼寺で新政府軍の軍監・岩村精一郎と長岡藩(藩庁:長岡城)の軍事総督・河井継之助と会談が行われました。当時の長岡藩は新政府軍に対して交戦派と恭順派に分かれて、河井継之助は中立により戦闘を回避しようとしましたが、岩村精一郎はその意を汲み取る事が出来ず、無礼な態度で一蹴した為に会談が決裂しました。この結果、長岡藩は正式に会津藩(藩庁:会津鶴ヶ城)を主力とする奥羽越列藩同盟に参加する事が決定され新発田藩(藩庁:新発田城)や村上藩(藩庁:村上城)などの越後諸藩もこれに追随し、北越戦争が勃発しました。小千谷陣屋は会津藩の拠点となり、対岸の朝日山を巡り激しい戦闘が行われ、周囲には奥羽越列藩同盟側の戦死者が討ち捨てられていたそうです。新政府方は奥羽越列藩同盟側の戦死者を触る事を禁じた為、供養するどころか、埋葬する事も出来ず戦後の昭和28(1953)、ようやく地元の人々の尽力により22基の墓碑が朝日山殉難者墓碑として建立されました。
魚沼神社(小千谷市)概要: 魚沼神社は第10代天皇とされる崇神天皇の御代に創建したとも云われています。崇神天皇については、実在説、非実在説があり、実在する場合でも古事記や日本書紀を信じ紀元前の天皇や、相対的な比較などにより3世紀から4世紀の天皇という説もあります。その為、魚沼神社が何時頃に成立した確かな資料がなく不詳という事になります。魚沼神社が記録として明確になるのは平安時代に成立した延喜式神名帳で、そこに記載されている魚沼神社は当社の事と推察されます。しかし、延喜式神名帳で記載されている魚沼神社を主張する神社は坂本神社(新潟県南魚沼市宮)、坂本神社(新潟県南魚沼市大倉)、魚沼神社(新潟県南魚沼郡湯沢町大字神立字宮林)と多数あり、何れも論社となっています。当魚沼神社は越後国一宮である弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)と同じ天香語山命を祭り、境内が信濃川の上流に位置していた事から「上弥彦大明神」とも呼ばれ越後国の二宮だったとも云われています(一般的な越後二宮は柏崎市に鎮座する物部神社)。何れにしも格式の高い神社として歴代領主からも篤い信仰を受けて大いに栄えたようです。
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