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勢至堂宿(須賀川市)概要: 天文6年(1537)、当時の会津黒川城の城主芦名盛氏が長沼方面への軍事道路として家臣である赤目越中と八田四郎兵衛に命じて後に勢至堂峠(標高723m)と呼ばれる街道を開削、交通の要所であった為周辺の村々(月輪、更科、西方)から人々が集められ集落が形成されました。その後、耶麻郡堂島村(現在の喜多方市塩川町の西部)から勢至菩薩を勧請し風光堂を創建、この事に起因して勢至堂と呼ばれるようになりました。勢至堂集落に峠に接している事から馬に関わる家が多く風光堂には馬の守護神である馬頭観音が勧請され、さらに別当寺院である勢至山蓮華院真勝寺(宗派:眞言宗新義派・本尊:阿弥陀如来)が創建しています。馬頭観音像は鎌倉時代に芳言房が彫刻したもので昭和43年(1968)に須賀川市(旧長沼町)指定文化財に指定されています。境内の杉は推定樹齢700年、樹高40m、幹周6.5m、「勢至堂の大杉」として昭和43年(1968)に須賀川市(旧長沼町)指定天然記念物に指定されています。天正18年(1590)に一時伊達領になると豊臣秀吉の奥州仕置きの際、秀吉の命で伊達政宗が勢至堂峠が3間幅で整備され太閤道とも呼ばれました。江戸時代に入り白河街道が開削されると勢至堂は宿場町として整備され、会津藩の藩境付近にある事から口留番所が設置されました(口留番所は慶長年間:1596〜1615年に会津領側の麓にある三代宿に移されています)。江戸時代当初、会津藩や新発田藩、村上藩、米沢藩は会津西街道(下野街道)を参勤交代の経路としていましたが、延宝8年(1680)、幕府は脇街道の利用を取り締まりを厳しくした事で会津藩や新発田藩、村上藩は白河街道を参勤交代で利用する事に定めました(米沢藩は米沢街道、別称板谷街道を利用して福島宿で奥州街道に接続)。勢至堂宿も大変賑わうようになり本陣や遊女がいた旅籠もあったとされます。戊辰戦争の際は重要拠点の1つとされ会津軍も駐屯しましたが、新政府軍は会津軍の裏をかき母成峠に主力を向けた為、陽動部隊との小競り合いとなりました。現在の勢至堂宿は新しい建物に建替えられているものの、宿場町の雰囲気が残され、宿場外れに設けられた一里塚は街道の両側に残る貴重なものとして昭和43年(1968)に須賀川市(旧長沼町)指定史跡に指定されています。
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勢至堂宿 |
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勢至堂宿:町並み |
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