会津西街道(下野街道)概要: 会津西街道は会津五街道の1つで下野国(現在の栃木県)を結ぶ事から下野街道の別称があり、会津城下(現在の福島県会津若松市)と日光街道の今市宿(現在の栃木県日光市)を結ぶ街道です。会津西街道は江戸時代初期に初代会津藩主保科正之によって開削され当初は会津藩(福島県会津若松市)や新発田藩(新潟県新発田市)と村上藩(新潟県村上市)の参勤交代に利用されました。度重なる天災で参勤交代で利用する主要街道は白河街道へ譲りましたが廻米や物資の流通、日光東照宮の巡礼などで多くの人達が往来し重要視されました。明治時代になると国道121号線が設置された事で旧街道が使われなくなった為、比較的保存状態がよく、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている大内宿を中心に約10キロの間、会津西街道の古道、三郡境の塚、茶屋跡、一里塚、馬頭観世音碑など関連遺跡が平成14年(2002)に名称「下野街道」として国指定史跡に指定されています。
会津西街道(下野街道)の主要の宿場町・城下町
会津は会津城(黒川城)の城下町として発展した町で、当時の会津は出羽国、陸奥国、越後国、下野国の何れも通じる交通の要衝で、芦名氏、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、松平家と名だたる大名が支配した土地柄でした。城郭の規模も東北地方最大級で、天守閣は戊辰戦争の無数の砲火を浴びてその後解体されましたが、現在でも随所に石垣や深い堀が随所に見られ国指定史跡に指定されています。大内宿は、背後に大内峠、中山峠を控えていた為、宿泊や休息で利用する人が多くの、当初は本陣が設けられていました。明治以降に近代交通網から外れ、周囲が山々に囲まれている環境から奇跡的に街道沿いには今尚数多くの茅葺屋根の民家が建ち並ぶ町並みが残されています。大内宿の民家は概ね、木造平屋建、寄棟、茅葺、妻入が多く、屋敷の規模を略同じである事から、高台から眺めると壮観な景観を見る事が出来ます。田島宿は中世、長沼氏の居城である鴫山城の城下町として発展した町で、江戸時代は天領となり南山御蔵入5万5千石の中心として代官陣屋が設けられました。その為、会津西街道では幕府の役人の往来もあり田島宿は当地域の中心となりました。現在は近代化され宿場町の雰囲気が感じられる町並みは少ないですが旧南会津郡役所や和泉屋旅館、長沼氏の菩提寺だった徳昌寺などが残っています。その他には糸沢宿の本陣や川島宿の川島家住宅などが残っています。
会津西街道(下野街道)のルート
若松城下−福永宿−関山宿−大内宿−倉谷宿−楢原宿−田島宿−川島宿−糸沢宿−横川宿−中三依宿−五十里宿−高原新田宿−藤原宿−大原宿−高徳宿−大桑宿−今市宿(日光街道)−※日光東照宮
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会津西街道(下野街道)の見所
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