新発田城・歴史: 新発田城が何時頃築かれたのかは不明ですが、鎌倉幕府の御家人として当地域に配された佐々木盛綱の後裔とされる加治氏の支族である新発田氏が居館として築いたとされます。新発田氏は室町時代に入ると一定の勢力を持つようになり、戦国時代には当地域を代表する国人領主に成長し上杉謙信に従うと七手組大将の一人に数えられるなど有力家臣として位置づけられました。天正6年(1578)、上杉謙信が病死すると、甥で養子の上杉景勝と小田原北条氏から養子となった上杉影虎が家督を争い、所謂「御館の乱」により越後領内は2手に分かれ争乱となり、新発田長敦は五十公野治長(長敦の弟)と共に景勝の勝利に大きく貢献します。勝利直後、長敦が病死すると恩賞は無効となり、さらに占拠していた三条領まで取り上げられた為、跡を継いだ治長=新発田重家は強く対立するようになります。天正9年(1581)、重家は芦名家と伊達家の後ろ盾を得た事で、反旗を鮮明にして上杉領に侵攻、新潟港(新潟県新潟市)周辺を掌握し支城となる新潟城を築城し頑強に抵抗を始めました。家督争いから家臣(新発田家)の反乱により上杉家が大きく弱体化した為、織田信長の家臣柴田勝家などが越後に侵攻し、あと数日で春日山城に辿り着くまで追い込まれましたが、天正10年(1582)、織田信長が本能寺の変で倒れると織田軍は一斉に越後から軍を引き上げた為、景勝は奇跡的に命脈を保っています。その後、景勝が豊臣秀吉に従った事で領地を安堵され、後顧の憂いが無くなり新発田領に侵攻、苦戦はしたものの天正15年(1587)に新発田城は落城し重家も自刃しています。慶長2年(1597)、景勝が会津若松城120万石で移封になると、春日山城には掘秀治が入封し、新発田城には秀治の与力大名で大聖寺城(石川県加賀市)の城主溝口伯耆守秀勝が6万石で配されます。秀勝は新発田城を近代的な城郭へと修築、拡張を行い、慶長5年(1600)の関が原の戦いでも東軍方として行動し領地が安堵され新発田藩を立藩しています。新発田城には藩庁と藩主居館が設けられ石高の変更はあるものの、明治維新まで溝口家が藩主を歴任しています。戊辰戦争では逸早く奥羽越列藩同盟を脱退し同盟軍の侵攻を受けましたが、その後に新政府軍の増援を得て逆に会津領などに侵攻しています。明治6年(1873)、廃城令の発令により新発田城は廃城となり多くの建物は払い下げ又は破却され、本丸部分は軍部の基地が設置されました。
新発田城の縄張り: 新発田城は本丸を中心として渦郭式、梯郭の平城で、本丸を東方、南方とL字形で囲うように二ノ丸、西方を古丸(二ノ丸)が配され、二ノ丸の東方に三ノ丸、二ノ丸と三ノ丸の南方に外郭があり武家屋敷街となっています。城下を取り巻く周囲は低湿地帯として新田開発などを行わず天然の外堀に見立てています。本丸には藩主御殿と政庁、二ノ丸と三ノ丸は家臣や上級武士の居宅を設け、三ノ丸の南先端が大手筋となり、参勤交代で利用した越後街道(会津街道)と繋がっていました。天守閣は設けられなかったものの、本丸の北西隅には複合式層塔型3層3階の櫓が設けられ実質的の天守閣として見立てられていました。この3層櫓は屋根の棟がT字型になっている珍しい構造でその為鯱が3箇所取り付けられています。
新発田城の城下町: 新発田城の三ノ丸内が上級武士、外堀に張り付くように中級武士の武家屋敷街があり、それを取り巻くように下級武士の武家屋敷街が配されています。大手筋から藩主の参勤交代で利用する越後街道(会津街道)沿いは溝口家の菩提寺である宝光寺や託明寺など有力寺院による寺町が構成され、城下町で出入り部には足軽長屋や藩主別邸である清水園などを配して守りを固めています。本丸の北東方向の郭外には鬼門鎮護と出城的な役割として溝口秀勝が篤く帰依した宝積寺(宗派:真言宗智山派・本尊:十一面観音)が配され、新発田川に沿って商人町が形成されていました。
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