六日町宿: 雲洞庵

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概要:歴史・観光・見所
六日町宿概要: 六日町宿(新潟県南魚沼市)は古くから三国街道清水街道(清水峠越往還)六日町宿(南魚沼市)が合流する交通の要衝で軍事的にも重要視されました。南北朝時代の文和年間(1352〜1355年)に越後国守護職の上杉憲顕の家臣長尾高景の一族が上田荘に配され板戸城が築城されると、当地の中心地として整備されました。後裔は地名に因み上田長尾氏を称するようになり、当地は上記のように交通の要衝であると同時に魚野川舟運の拠点である河岸を擁し、穀倉地域だった為、越後国内の国人領主の中でも有力者として無視出来ない存在となりました。戦国時代に入り越後国守護代長尾氏が台頭した後も独立性を保っていたものの、上杉謙信により板戸城が攻められ以後従うようになっています。謙信の跡を継いだ上杉景勝は上田長尾氏出身だった事から側近には直江兼続はじめ上田荘出身のものが多く上田衆と呼ばれ重用されました。慶長3年(1598)に景勝が会津黒川城福島県会津若松市)に移封になると板戸城には堀直寄が入り、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで東軍として行動した事から3万石で板戸藩が立藩します。しかし、慶長15年(1610)に堀一族の御家騒動により直寄は飯山藩(長野県飯山市)に移封となり板戸藩は廃藩となっています。江戸時代に入り三国街道が正式に開削される六日町は宿場町として改めて整備され本陣、脇本陣、問屋、旅籠など施設が設置されました。三国街道は越後諸侯の参勤交代の他、幕府直轄の佐渡金山を管理する代官や役人が往来し、特に参勤交代の復路は六日町宿から長岡城の城下まで舟運で移動した為、賑わう要因となりました。六日町宿の本陣は代々遠藤家が歴任し享和3年9月25日(1803年11月9日)の伊能忠敬の第4次測量で三国街道を利用し六日町宿に通過した際には遠藤伝左衛門宅で宿泊しています。明治時代に入り近代交通網の整備が進むと次第に衰微し、特に舟運の衰退が大きな打撃となり経済性の優位性が失われています。

雲洞庵(南魚沼市)概要: 雲洞庵は古くから名刹としてしられ、特に関東管領上杉家の菩提寺雲洞庵(南魚沼市)として格式の高く、多くの僧侶が修行の為に山門をくぐりました。特に、雲洞庵で修行する事が名僧になる為の第一歩だった事から「雲洞庵の土踏んだか」と詠われました。雲洞庵からは多くの名僧が輩出され、特に第10世住職北高全祝は戦国武将として名を馳せた上杉謙信、武田信玄共に禅の師として大きな影響を与えました。又、雲洞庵から板戸城が近かった事から上田長尾氏とも関係が深く、幼少時の上杉景勝(上杉家2代、米沢藩初代藩主)と、直江兼続(上杉家執政)が雲洞庵で学問の修行を行ったとも云われています。景勝が越後国を掌握すると、上杉家の執政となった直江兼続は禁制を発布して雲洞庵を保護するなど、上杉家が会津に移封になるまで関係が続きました。現在でも境内は古刹の風致に富み、中でも本堂は江戸時代に建てられた名建築とされ新潟県指定文化財に指定されています。

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