日光西街道(壬生通り)

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日光西街道(壬生通り)概要
日光西街道(壬生通り)概要: 日光西街道(壬生通り)日光西街道は奥州街道(日光街道)の小山宿の北側に位置する喜沢追分から日光東照宮までの街道で壬生宿を経由することから"壬生通り"とも呼ばれています。楡木宿で日光例幣使街道と合流し今市宿でさらに日光街道会津西街道(下野街道)、会津北街道(大田原道)とも合流しています。将軍の日光東照宮参拝の際は正式ルートである日光街道が利用されましたが、日光西街道の方が約2里短かった為、一般利用者はこの街道を利用する方が多かったとされ、将軍も帰参の際は略式となりこのルートで江戸に戻りました。一般的には小山宿から楡木宿の間を日光西街道と呼んでいるようです。

飯塚宿・概要: 小山宿からは最初の宿場町で承応3年(1654)に成立しました。周辺は古代下野国の中心だった地域で国分寺跡(国史跡)や国分尼寺跡(国史跡)があり、当寺の有力豪族の墳墓と推定される「摩利支天塚古墳(国史跡)」や「琵琶塚古墳(国史跡)」など、当地域としては最大級の古墳が点在しています。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒程度で現在は宿場町の雰囲気が失われています。

壬生宿・概要: 壬生宿は壬生藩の藩庁と藩主居館が設けられた壬生城の城下町として発展した町で、慶安4年(1651)に3代将軍徳川家光が死去し遺骸が日光に運ばれる際、壬生宿に境内を構える「興光寺」で一泊し仮通夜が行われています(寺紋として葵の御紋が許されています)。中世の領主である壬生家や、壬生藩主鳥井家の菩提寺である「常楽寺」や慈覚大師の生誕地とされる「壬生寺」、壬生家の崇敬社である「雄琴神社」、宿場の遺構である「松本本陣門」、「松本脇本陣門」、「一里塚」などが残されています。街道沿いには僅かですが町屋も点在し往時の繁栄が窺えます。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、戸数429軒、人口1870人となっています。

楡木宿・概要: 楡木宿で日光西街道(壬生通り)は日光例幣使街道と合流し、追分には「右中仙道、左江戸道」の道標が設置されていました。江戸時代は天領や旗本などが支配していました。鎮守は楡木神社で磐裂命、根裂命、日本武命、武内宿禰命が祀られていました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒、戸数128軒、人口511人となっています。

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