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天屋宿・本名宿概要: 案内板によると「 天屋本名の集落は、街道を挟んで北が天屋、南が本名となりそれぞれ別の行政区となっている。「新編会津風土記」によれば、「天屋村は昔、満田といったが永正のころ(1506〜20)天屋と改めた。もとは村北五町にあったがいつ頃かここに移した。北条時頼がこの村を通った時(陸奥の満田の山の束松千代の齢を家つとせん)と詠んだと村人たちは伝えている」と記されている。村中の街道は明治初年までの越後街道で、白河街道の一部、さらには幕府の佐渡道であり、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあった。江戸時代、会津藩は宿駅制度を定めると、束松峠の峻険を控えた天屋本名は、片門・野沢両駅所の「間の宿」として荷物の輸送や旅宿で賑わった所でもある。名物は生蕎麦で、片門の宿に止まった人たちも、わざわざ天屋蕎麦を食いに登ってきたという。 明治15年、会津三方道路は、束松峠の険を避け、藤峠経由となってしまった。さしも殷賑を極めた越後街道も人影まばらに、天屋本名は生活の道を失うに至った。地元民は再び昔の賑やかさを取り戻そうとして、独力で束松峠に長さ40間余(約250メートル)の洞門を掘り車馬の通行を可能にした。しかし、ときは車・鉄道の時代となり、夢は潰れたが、村人の努力と団結心は今に受け継がれ豊かな集落となっている。 束松峠を護る会 会津坂下町教育委員会 」とあります。両宿場共に、街道沿いには古い民家が軒を連ね、宿場町の雰囲気を残しています。天屋宿・本名宿を越えるとの難所の1つ束松峠(標高:465m)があり「天屋の東松(福島県指定天然記念物)」や「束松一里塚(会津坂下町指定史跡)」、「峠の茶屋跡」、「石畳跡」、「束松洞門」などの史跡が点在し、戊辰戦争で敗れた会津藩の家臣秋月悌次郎が「行くに興無く、帰るに家なし、国破れて孤城雀鴉乱る・・・風は淅瀝として雲は惨憺たり、いづれの地に君を置き、また親を置かん」と詠んでいます。
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天屋宿・本名宿 |
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天屋宿・本名宿:町並み |
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