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気多宮宿概要: 気多宮宿(福島県会津坂下町)は慶長16年(1611)の会津大地震で、当初の街道筋だった勝負沢峠が壊滅的な被害を受け、改めて鐘撞堂峠を開削した際、越後街道(会津街道)の宿場町として整備されました。越後街道(会津街道)と沼田街道(沼田城〜尾瀬沼〜鶴ヶ城)との分岐点でもあった為、追分には道標が設けられ、会津では「越後出るときゃみんなで出たが、泣いて別れる気多の宮」と詠われました。道標は元禄年間(1688〜1703年)に会津藩によって建立されたもので、高さ約2m、書は会津藩士で書家ある鯨岡平右衛門(伝)、「是より右越後路」、「是より左柳津路(柳津までは柳津街道と呼ばれました)」と刻み込まれています。又、戊辰戦争の際は気多宮宿でも戦闘が行われたようで道標の背後には弾痕と思われる小穴が3箇所開いています。地名の由来になったと思われる気多神社の創建は不詳ですが文治2年(1186)、武蔵坊弁慶の脊板を拾った際、気多大社(石川県羽咋市:能登国一宮、式内社)の分霊を勧請したとも、延宝2年(1674)、平野権兵衛長恭(豊臣家の旧家臣)が当地に土着した際、旧領に鎮座していた気多大社を遷座したとも云われます。拝殿は入母屋、桟瓦葺、平入、桁行3間、正面1間向拝付、祭神:大己尊命。
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塔寺宿 |
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気多宮宿:町並み |
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