大間越街道(西浜街道)概要: 大間越街道は江戸時代に整備され、羽州街道の檜山の手前にある金光寺追分から能代、八森を経て弘前城(青森県弘前市)の城下に向かう街道です。弘前藩主津軽家と盛岡藩主南部家とは犬猿の仲とされ文政4年(1821)には南部藩士下斗米秀之進による9代藩主津軽寧親の暗殺未遂事件(相馬大作事件)が起きるなど度々不穏な事が起り、戊辰戦争では両藩による野辺地戦争が行われます。その為、弘前藩の参勤交代のルートは南部藩領を縦断する奥州街道を避け羽州街道が整備されるまでの江戸時代初期は大間越街道を利用していました。蝦夷地南部を支配した松前藩も江戸時代当初は小泊(中泊町)に上陸し大間越街道から羽州街道、奥州街道を経て江戸に向う経路を参勤交代で利用しており当初は各宿場も賑わっていたと思われます。大間越街道の宿場町としては弘前城の外港で津軽四浦に数えられた鯵ヶ沢湊、同じく深浦湊があり、鯵ヶ沢には代官所と藩主の御仮屋(藩主専用の宿泊所、他藩では陣屋に相当)、深浦にも御仮屋が設けられていました。特に鯵ヶ沢湊は弘前城の外港でもあり、弘前藩領の年貢米が岩木川舟運で十三港に運び込まれ、そこから鯵ヶ沢湊に搬送し、鯵ヶ沢湊で弘前藩の藩舟に積み替え京都や大坂に運ばれました。久保田藩との藩境にある大間越には津軽三大関所に数えられた大間越関所(深浦町指定史跡)を設置し厳重に出入りを管理されました。羽州街道が開削されると参勤交代では利用されなくなりましたが、日本海側を通る重要な街道としての位置付けは変わらず旅人や物資の往来がありました。又、風光明媚な千畳敷(日本の水浴場55選、津軽国定公園)や森山海岸、十二湖(白神山地、津軽国定公園)、行合崎(深浦町指定名勝)、大岩海岸、日本キャニオンなどが点在し観光地として賑わっています。
大間越街道と弘前城: 大間越街道は西浜街道とも呼ばれ弘前城にとっても重要な意味付けられました。弘前城は当時の津軽家の軍師沼田面松斎(沼田祐光)が縄張りした名城で、面松斎は陰陽道・易学・天文学に通じていた事から築城地を長勝寺構(現在の禅林街)、高岡(現在の弘前城の地)、亀ヶ岡(現在の亀ヶ岡遺跡)から占いにより高岡の地を選定しました。さらに弘前城を四神相応の思想に基づいて霊的にも強化するべく、東に青龍が棲むという流水、西に白虎が棲むという大通り、南に朱雀が棲むという水地、北に玄武が棲むという丘陵が求められました。大間越街道(西浜街道)は西に白虎が棲むという大通りに見立てられた為、藩主津軽家が当初参勤交代で利用したとも考えられます。その為、当初の弘前城の正面は北向きで現在亀甲門(この名称も四神相応の北の玄武=亀に因んで名付けられています。)と呼ばれている門が事実上の大手門として、この門を通り参勤交代の一行が江戸に向かいました。
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大間越街道のルート(青森県内)
弘前-高杉-十腰内-浮田-鯵ヶ沢-赤石-金井ヶ沢-追良瀬-深浦-岩崎-大間越
大間越街道(西浜街道)の見所
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