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東海道
東海道概要:  江戸時代に入ると江戸と京都を結ぶ主要街道として東海道が整備されました。慶長9年(1604)には日本橋を起点として一里ごとに一里塚が設置され53の宿場町が随時開かれ本陣や脇本陣、旅籠、問屋場、継立場、並木などが整備されました。幕府が整備した東海道、日光街道(日光道中)奥州街道(奥州道中)中山道甲州街道(甲州道中)は特に五街道と呼ばれ道中奉行の管轄下に入り重要視しました。多くの大名が参勤交代で利用し箱根と新居には関所が設けられ人物改めや荷改めが厳重に取り締まりました。

東海道のルート
日本橋−品川宿−川崎宿−神奈川宿−程ヶ谷(保土ヶ谷)宿−戸塚宿−藤沢宿−
平塚宿−大磯宿−小田原宿−箱根宿−三島宿−沼津宿−原宿−吉原宿−蒲原宿−
由比宿−興津宿−江尻宿−府中宿−鞠子宿−岡部宿−藤枝宿−島田宿−金谷宿−
日坂宿−掛川宿−袋井宿−見付宿−浜松宿−舞坂宿−新居宿−白須賀宿−
二川宿−吉田宿−御油宿−赤坂宿−藤川宿−岡崎宿−池鯉鮒宿−鳴海宿−宮宿−
桑名宿−四日市宿−石薬師宿−庄野宿−亀山宿−関宿−坂下宿−土山宿−
水口宿−石部宿−草津宿−大津宿−三条大橋

姫街道 (東海道)
姫街道 (東海道)概要: 姫街道は東海道の見附宿と御油宿を結ぶ東海道の脇往還で、当初は本坂峠を越える為、本坂街道や本坂道などと呼ばれていました。姫街道の名称の由来は諸説あり東海道にある新居関所では特に「女改め」が厳しく、改め女(改め婆)が下半身を調べた上で性別を判断するなど身分の高い女性にとっては屈辱とも思える取り調べが行われた為、大名の奥方や姫などは本坂街道(本坂道)を好んで利用したからとも、大きな川の渡しがなかった為、峠道が多いものの女性でも比較的歩き易く、江戸時代中期には像も本坂街道(本坂道)を利用していたとか、東海道沿いには今切という地名があり今切関、今切の渡しなど不吉を感じさせるなどがあり、特に明文化されていた訳でもありません。現在でも石畳などが一部の区間で残っており当時の雰囲気が感じられます。

姫街道 (東海道)街道のルート
見附宿−市野宿−気賀宿−三ケ日宿−嵩山宿−御油宿

三州街道(塩の道)
三州街道(塩の道)概要: 三州街道中山道の塩尻宿から分岐、飯田を経由して東海道の岡崎宿までの街道で、信州の伊奈地方を縦断することから「伊奈街道」、又、中馬と呼ばれる駄賃馬稼が盛んだったことから「中馬の道」、「中馬街道」などと呼ばれました。参勤交代などが利用する街道とは異なり、太平洋側で取れた塩や海産物などの物資の輸送路や、江戸時代以降民衆に広がった行楽により伊勢神宮や善光寺、諏訪大社詣でなどの参拝者が数多く利用しました。主要街道に存在する厳しい関所などがなかった為、一般庶民でも比較的気楽に利用出来、宿場制度を超えて当事者同士が直接契約することにより手間や運賃が安く物資の運搬が出来る中馬が発達しました。明治時代以降は主要街道から外れた為、都市化された以外の宿場は比較的古い町並みが残されていて足助宿は重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

三州街道のルート
塩尻宿−小野宿−宮木宿−松島宿−伊那部宿−宮田宿−赤須上穂宿−飯島宿−
片桐宿−大島宿−市田宿−飯田宿−駒場宿−浪合宿−平谷宿−根羽宿−
武節(稲武)宿−足助宿−九久平宿−岡崎宿

上街道 (木曽街道)
上街道 (木曽街道) 概要: 名古屋城下と中山道伏見宿を結ぶ中山道の脇往還で尾張藩が主体となって開削されました。初代尾張藩主徳川義直は元和9年(1623)より開削工事が開始され、五街道に準じる宿場や一里塚、道幅を2間にするなど整備、約10年後に完成し寛政13年(1636)には初めて参勤交代で利用されました。尾張藩では参勤交代を東海道では無く自領の多い中山道を利用していた為、上街道は別称で「御殿様街道」などと呼ばれました。寛永2年(1625)には小牧宿に尾張藩主の別邸である小牧御殿が建設され楽田追分から犬山城下まで至る稲置街道に分岐し多くの物資や旅人の往来がありました。

上街道 (木曽街道) のルート
名古屋城下−小牧宿−善師野宿−土田宿−今渡−伏見宿

下街道 (善光寺道)
下街道 (善光寺道) 概要: 名古屋城下と中山道大井宿を結ぶ街道で、上街道 (木曽街道)に対して下街道と呼ばれていました。上街道に比べて距離が短く(上街道19里・下街道15里)、難所も少なく(土岐川沿いの平坦な街道)、正式な街道では無かった為、宿場制度も適用されず利用され易い街道でした。物流が下街道を多く利用するようになると上街道や中山道の宿場町での利益が極端に落ち込んだ為、半強制的な制限令も発令され公式な物流や人の往来は上街道を利用する事になりました。その為、下街道は一般庶民が利用する事が多くなり江戸時代中期以降、行楽が一般的になり善光寺詣でや伊勢神宮参拝で数多くの人が利用した事から「善光寺道」との別称が付けられました。

下街道 (善光寺道) のルート
大井宿−槙ヶ根追分−竹折−釜戸−土岐−高山−池田−内津−和泉−勝川−
大曽根口−名古屋城下

美濃路
美濃路概要: 美濃路は東海道の宮宿と中山道の垂井宿とを結ぶ脇往還で、関が原の戦いで勝利した徳川家康が江戸に凱旋した際利用した為「吉例街道」とも呼ばれました。江戸時代当初は将軍の上洛時に利用され、正徳4年(1714)以降は朝鮮通信使が10度利用し、お茶壺道中も元禄以降は江戸からの帰路は美濃路を毎年利用しています。琉球王使も11度美濃路を利用し大垣城下で宿泊し墨俣宿や起宿で休憩しています。美濃路は東海道の難所である「鈴鹿峠」と「七里の渡し」を避ける事が出来た為、多くの旅人が通行し享保14年(1729)には像の搬入にも利用されています。美濃路の行程は全長14里24町余(約58km)で7つの宿場と木曽川、境川、長良川、揖斐川の4箇所に渡し場が設置されました。

美濃路のルート
垂井宿−大垣城下−墨俣宿−起宿−萩原宿−稲葉宿−清洲宿−名古屋城下−宮宿

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