鶴ヶ岡城の城下町

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概要・歴史・観光・見所
鶴ヶ岡城の歴史: 鶴ヶ岡城大宝寺氏は藤原秀郷の血筋を受け継ぐ武藤氏の流れで武藤資頼が奥州合戦の際源頼朝に従い功を挙げ出羽国大泉荘が与えられ弟である武藤氏平が配されました。氏平は地名に因み大泉氏を名乗り、その後裔である大泉長盛が正平年間(1346〜1369年)に大宝寺の地に配され館を築きました。長盛は地名に因み大宝寺氏を名乗り、城も大宝寺城と呼ばれるようになりました。戦国時代に入ると大宝寺氏は庄内地方を掌握する国人領主に成長しますが、天文元年(1533)、一族である砂越氏維が離反し大宝寺城を攻め焼失、大宝寺は平城で守備には適していなかった事から当時の城主晴時は居城を尾浦城に移します。義増の代に著しく弱体化しましたが、跡を継いだ義氏は上杉家を後ろ盾にする事で再び庄内地方を掌握するまで旧領を回復し最盛期を迎えました。しかし、天正6年(1578)、鶴ヶ岡城上杉謙信が死去すると後ろ盾を失い、さらに最上家の台頭と戦線を広げた事で各地で敵を抱え一気に不安定な状況となり天正11年(1583)に家臣である前森蔵人(東禅寺義長)が最上義光に転じて謀反を起こした事で自刃に追い込まれています。跡を継いだ義興は養子として上杉家の家臣本庄繁長の次男義勝を向かえ命脈を保ちますが、義勝はその後本庄姓に復した為、大宝寺氏(武藤氏)は滅亡しています。庄内地方の大部分は一時最上義光に掌握されますが、天正16年(1588)、越後との国境近くに築かれた小国城まで退いた義勝は実親である本庄繁長の支援を受け十五里ヶ原の戦いで最上軍に勝利し再び庄内地方を支配します。その後、大宝寺城は上杉家執政の直江兼続によって大改修され木戸元斎が城代と配されました。慶長5年(1600)の関が原の戦いで上杉家は西軍に与した為、鶴ヶ岡城本戦である関が原で西軍が敗退すると上杉軍の多くが鶴ヶ城福島県会津若松市)に撤退した為、東軍に与した最上軍が庄内地方は席巻されました。江戸時代に入ると正式に山形藩領に組み込まれ大宝寺城は義光の隠居城にする為大改修され慶長8年(1603)に鶴ヶ岡城と改められました。元和8年(1622)、最上家が御家騒動により改易になると酒井忠勝が鶴ヶ岡城13万8千石で入封し庄内藩を立藩、鶴ヶ岡城には藩庁と藩主居館が整備され54年間、3代忠義の代に完成しています。以後、歴代酒井家が鶴ヶ岡城の城主を歴任し明治維新を迎えています。戊辰戦争の際は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と激闘を繰り広げましたが多くは久保田藩領内に進軍し、越後方面も一進一退だった為、城下に侵攻を許す前に降伏し鶴ヶ岡城も開城しています。明治4年(1871)の廃藩置県により鶴ヶ岡城は廃城となり明治9年(1876)に残された建物は破却されました。

鶴ヶ岡城の縄張り: 致道館鶴ヶ岡城は輪郭式平城で本丸を中心に、それを囲うように二之丸、三之丸が配され、3重の水掘に内川と青龍寺川が天然の外堀に見立てられていました。本丸には藩主居館と藩庁、北西隅には2層櫓、南と南西隅には渡櫓(1層2階)が配され、本丸中門は枡形で内北門と共に櫓門になっていました。二之丸の南東隅には2層櫓、城門は大手門、外北門、西門の3箇所で全て枡形櫓門、馬場や倉庫群と共に北東隅には鬼門鎮護の為稲荷神社が勧請されています。大手門や櫓周りには石垣を設けているものの大部分は土塁によって構成され周囲も大部分が板塀により囲われていたようです。三之丸には酒井家御用屋敷(庭園は酒井氏庭園として国指定名勝)の他、藩校である致道館(国指定史跡)、家臣屋敷が設けられ、二之丸の南方には百間堀と呼ばれた幅広の水堀により分断されていました。明治10年(1877)、本丸御殿跡に荘内神社(祭神:酒井忠勝、忠次、家次、忠徳)が創建、さらに大正4年(1915)には洋風建築である大宝館(旧市立図書館、鶴岡市指定有形文化財)が建立されています。

鶴ヶ岡城の城下町: 大督寺三之丸の外側の大手筋には参勤交代で利用する舟形街道に繋がる街道が内川沿いに南に伸び、羽州浜街道大山宿に繋がる大山街道は西方、村上城(新潟県村上市)とを結ぶ出羽街道は南に伸びていました。街道沿いには商人町が形成され、さらに商人町の外側の南方と南東方向には寺町が配され防衛ラインにしていたようです。北東の鬼門鎮護には城内の稲荷神社の他、郭外の山王日枝神社が当てられたと思われ、社領98石が寄進され歴代酒井家の崇敬社として庇護されました。南西の裏鬼門鎮護には酒井家の菩提寺である大督寺が当たり、境内が大山街道と出羽街道との分岐点でもあり鶴ヶ岡城の出城的な機能を果たしたと思われます。

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