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大内宿(下郷町)・歴史: 大内宿の地名の由来は、伝承によると高倉以仁王(後白河天皇の第三皇子)が平家打倒を画策し治承4年(1180)に挙兵しましたが、宇治平等院の戦いで敗北し越後国小国の領主小国頼之(源頼政の弟)を頼って当地(山本村)に逗留した際、宮中の「大内(だいり)」に良く似た風景だった事から大内に改めたと伝えられています。天正18年(1590)の小田原の役では会津黒川城(鶴ヶ城)の城主伊達政宗は会津西街道を使い小田原参陣を試み大内宿まで進軍しましたが、敵兵が多かった事から一端引き換えし米沢城(山形県米沢市)を経由して小国、越後、信濃を経て小田原参陣を果たしています。同年、奥州仕置きを終えた豊臣秀吉が黒川城から宇都宮城(栃木県宇都宮市)に戻る際も会津西街道を利用し大内宿を通過しています。江戸時代に入ると会津藩領となり保科正之が藩主になると寛永20年(1643)に会津西街道の整備が行われ大内宿も宿場町として整備されました。当初は会津藩主松平家の参勤交代で会津西街道を利用していた為、大内宿には本陣や脇本陣が設置され重要視されました。特に大内宿の前後には会津西街道の中でも難所とされる大内峠(関山宿側)や中山峠(倉谷宿側)が控えていた事もあり旅人や運搬業者にとっても使い易い宿場町でした。延宝8年(1680)に幕府が脇街道の利用の取り締まりを厳しくなると、会津藩の参勤交代が白河街道で奥州街道の白河宿に入り、そこから奥州街道を南下し江戸に至る経路に変更になり、大内宿にも大きな打撃となりました。その後は、物販の搬入路や旅人などが利用する一般的な宿場となりましたが、天和3年(1683)の日光大地震により街道の一部が堰止湖により水没するなど通行不全に陥り、その後復旧しましたが新たに開削された会津中街道により大内宿を利用する人も半減しています。嘉永5年(1852)には長州藩を脱藩し東北遊学した吉田松陰は弘前藩(青森県弘前市)の海上防衛施設(台場)や会津藩の日新館(藩校)などを視察し、帰途の際、大内宿を通過しています。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際は宇都宮城から敗走した土方歳三等新撰組一隊は会津西街道を北上、大内宿を通過し鶴ヶ城((会津黒川城)に入っています。新政府軍も会津西街道を利用して鶴ヶ城に向かって進軍し、戦線を維持出来なくなった会津軍は大内宿を焼き払い後退しようとしましたが、当時の名主である阿部大五郎が嘆願し兵火を免れる事が出来ました。明治11年(1878)6月27日にはイギリス人女性紀行家イザベラ・バードも大内宿を利用し著書である「日本奥地紀行」で「私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。村は山に囲まれた美しい谷間にあった。」と記載し、飲用した葡萄酒が住民達にとって刺激的だったと伝えられています(記述の内容に合致している宿所は「美濃屋」と推定されています)。現在でも街道沿いには多くの茅葺屋根の建物が軒を連ね昭和56年(1981)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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