富士川街道(駿州往還・身延道・身延山久遠寺)

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富士川街道(駿州往還・身延道)
富士川街道(駿州往還・身延道)概要: 甲州街道東海道を結ぶ街道で、甲州街道の甲府城の城下町から分岐して富士川沿いに下り東海道の岩淵宿(間の宿:静岡県富士市:旧岩淵村)又は興津宿(静岡県静岡市清水区)で合流しました。参勤交代では利用されず、主に人や荷物の往来で、特に富士川舟運により太平洋で採れた海産物や塩などが甲州の内陸部に運ばれ重要視されました。又、江戸時代中期以降に庶民にも行楽嗜好が高まると日蓮宗の総本山である身延山久遠寺に多くの信者や参拝者が訪れるようになり、各宿場も賑いました。

鰍沢宿は富士川舟運の最大の拠点で、これより上流に舟運船が溯上出来なかった事から、内陸部の荷物は鰍沢湊から船に荷揚げされ、下流からは鰍沢湊で荷下ろされ、ここから陸路で内陸部まで荷物が運ばれました。又、交通の要衝でもあった事から大きく発展し甲府一国(天領)の年貢米を鰍沢に集め江戸へ向けて廻送していました。。西島宿は富士川街道と、対岸の別の経路の街道の岩間宿とを結ぶ交通の要衝で、岩間宿との渡し舟の発着場がありました。又、西嶋和紙の生産地として知られ質が良い事から武田信玄などにも献上されています。切石宿は江戸時代初期の寛永年間(1624〜1645年)に開かれた宿場町で、上宿、中宿、下宿と3つ町が縦長に配され、中宿が切石宿の中心として本陣(名主屋敷)が設けられました。富士川舟運の拠点の1つとして物資の集積場にもなっていました。下山宿は中世、武田家の一族である穴山氏の居城である下山城の城下町として発展した町で、江戸時代には富士川街道の宿場町として本陣や問屋、会所などが設置され、富士川舟運の拠点にもなりました。又、下山大工と呼ばれる技術集団の発祥地として知られ、現在の山梨県内でも下山大工によって建てられた社寺仏閣の建物が数多く残され技術の高さが窺えます。身延宿は富士川街道の宿場町であると共に日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の門前町として発展しました。身延山久遠寺は弘安4年(1281)、日蓮宗の宗祖である日蓮上人により開山された寺院で文明7年(1475)に日朝上人により現在に移され、門前町が形成されていきました。日蓮宗の総本山として武田家や穴山氏、徳川家など歴代領主や為政者から帰依され寺院が隆盛し、江戸時代中期以降は多くの庶民も参拝に訪れ身延宿も活況を呈しました。南部宿は中世、甲斐源氏の一族である南部氏の本拠があった所で、周辺には南部氏関係の史跡が点在しています。南部氏が陸奥国(最終的には盛岡藩主)に遷ると、武田家に一族である穴山氏の支配下に入り戦国時代には既に宿場町として形成されました。交通の要衝でもあった事から当地域の軍事、行政、経済の中心地として発展し、明治時代以降は南部町の中心地となっています。

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